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道長に恨みを募らせ「悪霊左府」と呼ばれた藤原顕光

紫式部と藤原道長をめぐる人々㊲


9月29日(日)放送の『光る君へ』第37回「波紋」では、藤式部(とうしきぶ/のちの紫式部/吉高由里子)が里帰りする様子が描かれた。娘の藤原賢子(ふじわらのけんし/かたこ/梨里花)は久方ぶりの母の姿を眼の前にして戸惑いを隠せない。一方、藤原道長(みちなが/柄本佑)は、政敵・藤原伊周(これちか/三浦翔平)の台頭に身構えるのだった。


■藤式部の物語がさまざまな人を動かす

藤原顕光の邸宅があった堀河院跡(京都府京都市)。平安京における名邸として知られた。次女の延子も敦明親王とともに住まいとしていたが、延子への関心を失った敦明親王は、道長の三女・寛子の邸宅である高松殿に移ったという。

 出産のために土御門殿に里帰りしていた中宮・藤原彰子(あきこ/しょうし/見上愛)は、内裏に戻る際の一条天皇(塩野瑛久)への手土産に、藤式部の物語を美しく装飾された冊子にして献上するため、女房衆とともに作業に没頭する。

 

 冊子の完成後、彰子の許しを得て、藤式部も里帰りを果たす。戻った式部を待っていたのは、娘・藤原賢子との、埋めようのない溝だった。母の式部が自慢するように豪奢な暮らしぶりを語ることを、賢子は許すことができない。帰ったのも束の間、式部が身近にいないことに不安を覚える彰子に、式部は呼び寄せられたのだった。

 

 彰子らが内裏に戻ってから、藤式部の書く物語を高く評価する一条天皇が彰子の生活する藤壺に度々訪れ、華やかな空気が流れていた。

 

 そんなある日、清少納言(ファーストサマーウイカ)が藤式部のもとを訪ねてやってくる。久しぶりの再会となった清少納言は、式部の書く物語を読んだ上で、訪ねてきたのだという。

 

■華々しい家柄にもかかわらず無能と嘲りを受ける

 

 藤原顕光(あきみつ)は、944(天慶7)年に関白を務めた藤原兼通(かねみち)の長男として生まれた。母は元平親王の娘。

 

 父の兼通は、藤原道長の父・藤原兼家(かねいえ)の兄にあたる。つまり、顕光と道長は従兄弟の間柄となる。妻には村上天皇の第5皇女を迎えており、その家柄のよさから順調に出世を重ねていく。

 

 兼通と兼家は犬猿の仲だったと伝わっている。兼通が亡くなった後、兼家が一時的に左遷されたのは兼通の策略によるものだったが、やがて政権の実権を握り、摂政や関白の座を兼家一家が独占することとなった。その背景には、花山天皇を強引に退位させ、外孫である一条天皇を即位させる兼家の陰謀がある。

 

 兼家が没した後、息子の藤原道隆(みちたか)道兼(みちかね)兄弟が相次いで関白を務めるものの、次々に病没。漁夫の利を得る形で、顕光は権大納言に昇進する。

 

 この頃に権力を掌握したのが道長だった。道長と激しい権力争いを繰り広げた藤原伊周が長徳の変(996年)で失脚したことに伴い、顕光は右大臣に就任。左大臣に就いた道長に次ぐ地位を得た。

 

 この年、顕光の長女・元子が一条天皇に入内。のちに念願の懐妊を果たしたが、出産の日、腹からは水が流れ出るばかりで子は生まれなかったという。

 

 999(長保元)年に道長の長女・藤原彰子が一条天皇に入内する。1008(寛弘5)年には敦成(あつひら)親王を出産した。元子がその後、懐妊することがなかったため、顕光の「天皇の外戚になる」という計画はあえなく破綻した。

 

 そんななか、1001(長保3)年に顕光の長男・重家(しげいえ)が突如、出家している。どうやら、道長を支える「一条朝の四納言」と呼ばれた、藤原公任(きんとう)、藤原斉信(ただのぶ)、藤原行成(ゆきなり)、源俊賢(みなもとのとしかた)の仕事ぶりを間近に見て、とても自分が出世できる世界ではない、と悲観した末の決断だったらしい。

 

 一条天皇の第2皇子となる敦成親王の五十日(いか)の儀が催された1008(寛弘5)年には、酔った挙げ句にさまざまな失態を犯し、人々に呆れられた様子が『紫式部日記』に記されている。

 

 どうやら、血筋がよいだけの困った人物、という評価が貴族社会で広まっていたようで、「本より白者(しれもの)なり」(『御堂関白記』)、「万人、嘲弄す」(『小右記』)と、いたって評判はよくない。

 

 1011(寛弘8)年に一条天皇の崩御に伴い、三条天皇が即位。敦成親王が東宮となった。この頃、長女・元子が源頼定(よりさだ)と密通していたことが発覚。激怒した顕光は元子を無理やり出家させるが、元子は頼定と駆け落ちするという行動に出た。その後、元子は2人の子どもをもうけたらしい。

 

 顕光の人生にとって最大の悲劇となったのは、次女である延子の結婚だ。延子は三条天皇の第一皇子である敦明(あつあきら)親王と1010(寛弘7)年頃に結婚。順当に行けば、三条天皇の次に即位する後一条(ごいちじょう)天皇の後に天皇となる資格が敦明親王にはあったが、道長の圧力で東宮を辞退させられた。

 

 さらに、道長が三女の寛子(かんし/ひろこ)を敦明親王と結婚させると、親王は急激に延子への関心を失い、延子のもとを去った。夫を奪われ、嘆き悲しんだ延子は、失意のうちに1019(寛仁3)年、この世を去る。

 

 一連の工作によって自身の将来をことごとく潰された顕光は、道長に対する恨みを胸に抱いていたが、延子の悲嘆する姿を眼の前にしてついに怒髪天(どはつてん)を衝き、一夜にして白髪になったという。以降の顕光は左大臣を務める一方で、道長に呪詛をかけ続ける一生を送った。

 

 1021(治安元)年に78歳で死去。

 

 顕光の死後、道長の娘である寛子(1025年)、嬉子(きし/よしこ/1025年)、妍子(けんし/きよこ/1027年)も相次いで亡くなったため、世間は「顕光と延子の祟りではないか」と震え上がったという。

 

 そのため、顕光は「悪霊左府」と呼ばれ、恐れられた(『宇治拾遺物語』)。

 

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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