家康と淀殿から「信任」を得て豊臣家のために奔走した片桐且元
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第36回
■秀吉亡き後の豊臣家を主導した片桐且元

誓願寺(静岡市駿河区)にある片桐且元の墓。誓願寺は方広寺鐘銘事件の際に、家康への弁明を行う且元が滞在したことでも知られる。
片桐且元(かたぎりかつもと)は賤ヶ岳(しずがたけ)の七本槍の一人であるものの、加藤清正(かとうきよまさ)や福島正則(ふくしままさのり)のような国持大名(くにもちだいみょう)として名を残していないため、戦国武将としてのイメージが一般的に低いと思われます。
実際のところ且元は、豊臣政権の内政を担う人材として豊臣秀吉(とよとみひでよし)から高く評価されており、嫡子秀頼(ひでより)の五人の傅役のうちの一人に選ばれる有能な人物です。秀吉の死後には豊臣家の家老として秀頼と淀殿(よどどの)の信頼を得ており、家康からも摂津・河内などの国奉行を任されるほど信用されています。
しかし、豊臣家の滅亡を防ぐ事はできませんでした。これは大坂の陣の直前で、淀殿たちからの「信任」を失ったのが原因と思われます。
■「信任」とは?
「信任」とは辞書によると「信頼・信用して物事を任せること」「職能などを信じて職務を任せること。信用して任用すること」とされています。つまり、組織であれば重要な仕事を信頼によって任される事です。現代でいうと、後見人と被後見人や代理人と本人、取締役と会社などの関係が「信任」関係にあたります。
且元は豊臣家の家老として秀頼と淀殿だけでなく、外部の家康からの信任を得て、外部との折衝を続けていきます。
■片桐家の事績
片桐家は近江国浅井郡須賀谷の国人として父直貞(なおさだ)の時代から浅井家に仕えていたようです。浅井家滅亡後は、長浜を領した秀吉に石田三成(いしだみつなり)たちと共に奉公するようになります。1583年の賤ヶ岳の戦いでは加藤清正たちと共に活躍し、一番槍の戦功などが認められ摂津国で3千石を拝領します。
秀吉の馬廻り衆から作事奉行や検地奉行を担うようになり、豊臣政権の内政を担う存在として取り立てられていきます。1595年には1万石を得て大名となり、1598年には秀頼の傅役の一人に選ばれます。
関ヶ原の戦いの後には豊臣家の家老となり、同じころに家康より1万8千石を加増されました。
且元は、1604年に行われた秀吉の7回忌だけでなく、1610年の13回忌においても総奉行を任されています。淀殿からは「秀頼の親代わりとなってもらいたい」と言われるほど、厚い信任を得ていたようです。1605年ごろには大久保長安(おおくぼながやす)と同じく国奉行に任じられ、本多正純と共に西国の絵図作成などの実務にも携わっています。
且元は豊臣と徳川の両家から「信任」を得る立場を活用し、豊臣家の地位に関わる問題に対処していきます。
■豊臣家の存続を占う二条城会見の実現
1611年に家康が後陽成(ごようぜい)天皇の譲位の儀式で上洛するにあたり、秀頼との会見を求めてきました。且元は徳川家が権力を掌握していく中、これまでと同様に豊臣家の存続のために両家の協調に努めていきます。
且元は「秀頼がなぜ上洛する必要あるのか」と嫌悪感を示す淀殿を「拒否すれば関東との戦になる」と、秀頼の乳母大蔵卿局(おおくらきょうのつぼね)を通じて諫(いさ)めています。
一説には、上洛への吉凶占いで凶と出たのを吉と書き直させてまで実現させたとも言われています。これは且元の「信任」の厚さを物語っていると思います。秀頼の御供として、且元は織田長益(おだながます)や大野治長(おおのはるなが)たち豊臣家の重臣たちと共に二条城の会見に臨み、一時的に両家の協調が保たれます。
しかし、且元の「信任」を揺るがす事になる方広寺鐘銘事件が起きます。
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