家康と淀殿から「信任」を得て豊臣家のために奔走した片桐且元
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第36回
■方広寺鐘銘事件で失った「信任」
方広寺の鐘に刻まれた銘文を理由として、家康が秀頼を非難した方広寺鐘銘(ほうこうじしょうめい)事件が1614年に起こり、徳川家との外交を担っていた且元は家康のいる駿府に赴いて解決のための折衝に努めます。
且元は豊臣家の「信任」を得ている立場から「秀頼の参勤」「淀殿の江戸詰め」「豊臣家の転封」のような大幅な譲歩によって解決を図ろうと考えます。しかし、この豊臣家の権威を大きく低下させる譲歩案に、淀殿及び側近衆は強い難色を示しました。
逆に淀殿たちは、家康からの「信任」も厚い且元の裏切り、寝返りを疑うようになります。そして、大野治房など一部の側近たちによって且元暗殺が計画されるようになります。
且元は豊臣家の「信任」を一手に受けていた立場から、不忠者の扱いを受ける立場に一変しました。そして、大坂城を追放されるような形で豊臣家を離れる事になります。
こうして、家康が「信任」する者を豊臣家が排除した事が、大坂の陣の始まりの合図となります。
■「信任」を長く保つ事は難しい
且元は豊臣家だけでなく、家康からも「信任」されるという非常に稀有な存在でした。
そのため、二条城会見では渋る淀殿から譲歩を引き出すことに成功しましたが、方広寺鐘銘事件においては、淀殿たちに疑念を持たれたことで「信任」を失い、失敗してしまいました。
現代でも組織内での「信任」を保ち続けるのは、非常に難しいものです。社内の上層部の「信任」を失ったことで、内部の調整が頓挫し、外部との交渉に失敗してしまう例は多々あります。
もし且元が最後まで秀頼や淀殿の「信任」を保つ事ができていれば、豊臣家は何かしらの形で存続できたかもしれません。
大坂城を離れた且元は幕府方として大坂の陣に参戦し、豊臣家の滅亡を見守ることになります。そして、その20日後、秀頼たちの後を追うように病で亡くなります。
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