「女にうつつをぬかした」と激怒⁉ 男色相手を惨殺した徳川家光の「残酷な所業」とは
炎上とスキャンダルの歴史
■家光の「男性不信」の隙をついて世継ぎを産ませようとした春日局
この時期の家光には、不仲だった正室・鷹司孝子がいた以外、側室はいません。しかし、家光の男色の恋人としては、酒井重澄だけでなく、先述の堀田正盛、安倍忠秋(あべただあき)、安倍重次(あべしげつぐ)といった面々がいました。現代的な感覚では、彼らが女性とも関係し、子供をもうけたところで、家光がそれを責められる筋の話ではない気もしてしまいます。
しかし、酒井重澄の改易と変死の逸話を、家光が16歳の時、恋人男性が浮気した現場を目撃し、斬り殺した事件の逸話と並べて解釈してみると、少なくともこの当時の家光は、男性に抱かれる側の男性だったのではないか、というようなことを筆者は考えてしまうのです。
そうすると、仮病を使ってまで家光との性関係を拒み、隠居していた2年の間に女たちと遊び戯れ、子供をもうけていた酒井重澄に、家光が本能的に感じたすさまじい怒り、嫉妬、そして嫌悪もなんとなく理解できる気はしますね。
家光の心に「男性不信」が生まれたのを見逃さなかったのが、彼の乳母の春日局(かすがのつぼね)で、酒井重澄の事件の3年後、最初の側室・お振(ふり)の方が大奥に迎え入れられ、さらにその3年後、尼の身から強制的に還俗させられ、大奥に入ったお万の方が登場することになります。それでも家光が最初の子を授かったのは、彼が33歳の時でした。
同性愛は認めるが、お世継ぎを授かってからにして……という、昔の日本のルールもなかなかに厳しいものです。
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