家康が付けた配下との「上下関係」に苦しむ服部半蔵父子
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第34回
■三河武士として出世する服部半蔵
二代目正成は渡邊守綱(わたなべもりつな)や本多重次(ほんだしげつぐ)たちとともに家康の馬廻り衆として仕え、多くの合戦で一番槍の功名を得ていました。その後伊賀越えでの尽力を評価され、正成は家康に仕官を望んだ伊賀者たちを与力とされ、その指揮を任されるようになります。
天正壬午の乱においても、伊賀者たちを率いて江草城や天神ヶ尾砦を攻略し、家康からその功績を称えられています。小牧長久手の戦いのころからは鉄砲奉行として指揮を取るようになり、小田原征伐では根来衆も率いるようになります。そして徳川家の関東移封に合わせて8,000石の領地と、正式に伊賀同心200人の指揮を任されることになります。
これは正成の父が伊賀出身であったことと、伊賀越えなどの功績を高く評価したことが理由と言われています。しかし、配下とされた伊賀者たちにとってこの「上下関係」は喜ばしいものではありませんでした。
■服部家と伊賀者たちの「上下関係」の歪み
本来、正成の服部家は伊賀において、高い格式の家柄ではなかったようです。また伊賀を離れてから三河で生まれた正成は伊賀同心たちから同郷の人間とは思われていなかったようで、伊賀衆の頭領としては納得性が低い存在だったようです。
そのため、伊賀者たちにとって家康の直臣から服部家の配下となる事への抵抗は、かなり強かったと言われています。この納得性の低い「上下関係」は後々で大きな問題へ発展します。
正成の後を継いだ三代目半蔵正就は幕府の組織上、伊賀同心を家臣として扱います。火事で消失した自分の屋敷の普請に動員を掛けたり、知行に関して指図するなど頭領として振舞います。しかし、この「上下関係」に納得していない伊賀同心たちが幕府に訴えた事で、公儀を巻き込んだお家騒動の様相を呈します。
幕府による詮議を受けて伊賀同心の訴えはひとまず退けられますが、正就の不行状を理由に服部家は改易されてしまいます。服部家は代々半蔵の名を継いでいきますが、伊賀同心の指揮権を持つことは二度とありませんでした。
■「上下関係」に重要な納得性
正成は槍の名手であり指揮官としても有能な人物でしたが、その出自を理由にして伊賀同心と「上下関係」を結ぶには無理があったようです。家康の直臣であるという自負を持つ、伊賀同心たちを納得させるだけの理由が必要だったと思います。
現代でも組織や企業において、経営層の一存で同格以下と思っている同僚や後輩の部下にされ、モチベーションが下がる例が多々あるように「上下関係」はデリケートなものです。
もし正成が部下となる伊賀者を厳選できていれば、このようなトラブルは避けられたのかもしれません。
ちなみに服部家はその後、縁戚関係にあった桑名藩で家老となり、12代目半蔵正義(まさよし)は藩主の松平定敬(まつだいらさだあき)と共に戊辰戦争を戦っています。
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