女王・卑弥呼は何を食べて、どんな服を着て、どんな家に住んでいたのだろうか⁉【日本古代史ミステリー】
令和の定説はコレだ!古代史【研究最前線】
日本の歴史でもっとも有名な女性のひとり、卑弥呼はどんな生活をしていたのだろうか?
■卑弥呼をめぐる衣・食・住の謎

卑弥呼像
邪馬台国の宗教王として特殊な役割を担っていた、卑弥呼の日常生活を具体的に描くことはなかなか容易ではない。
たとえばどのようなものを着ていたかというと、弥生時代の代表的な衣服としては貫頭衣(かんとうい)があげられる。貫頭衣とは、長い布の中央部に穴をあけ、そこに頭を入れ、腰のあたりをひもでしばったもので、上着は基本的にはこのタイプであった。下半身は巻きスカートのように布をまきつけていたとされる。
この基本パターンに、バリエーションをつけたものが弥生時代の女性の衣装であった。たとえば、貫頭衣だけの場合、ノースリーブということになるので、腕の部分をつけ加えたりもしたであろう。素材は麻が一般的であった。卑弥呼も原則的にはこうしたいでたちであったと考えられている。
魏へ遣使(けんし)した卑弥呼は、皇帝から絳地交龍錦(こうじこうりゅうきん)と名付けられた豪華な絹織物(きぬおりもの)なども下賜(かし)されているが、こうしたものを実際に身につけていたかどうかはさだかではない。いずれにしても、宗教王という立場だった卑弥呼は、豪華な衣服よりも勾玉(まがたま)やガラス玉などの多くの呪具(じゅぐ)を首や腕に身につけていたのであろう。
また、食に関していうと、卑弥呼が生きた弥生時代後期はすでに本格的な農耕がおこなわれていたが、コメの収穫量はまだそれほど多くなかったため、主食としては玄米を蒸したものをとっていたとされる。
これに副食として、肉や魚介・果実などをとっていたといわれる。植物性食料を例にすると、縄文時代からクリ・クルミ・トチ・ドングリなどの採取に加えて、エゴマやリョクトウの栽培やヤマイモなどの増殖・管理がみられ、これらは弥生時代にはいっそう進んだと考えられる。イノシシやニホンジカの肉も食膳にそえられたであろうし、弥生時代にはブタの飼育もおこなわれていたことがわかっている。
魚貝も種類が豊富であり、のちの8世紀初めの成立である『出雲国風土記(いずものくにふどき)』には、マグロ・フグ・サメ・イカ・タコ・アワビやサザエ・ハマグリ・ウニ・カキ・ノリ・テングサなどが記載されている。おそらく、卑弥呼の食卓にもこうした魚介類が出されていたのであろう。
最後に住居であるが、『魏志』倭人伝には、卑弥呼の住まいについてわりと詳しく記されている。弥生時代の住居として一般的には竪穴(たてあな)住居が考えられ、倉庫としては高床(たかゆか)の建物が想定される。支配者の住居であれば、高床建物も使用されたであろう。

一説には卑弥呼の住居があったとされる纏向遺跡。
卑弥呼の住居については、『魏志』倭人伝には、「宮室、楼観には城柵を厳しく設け、常に人有りて兵を持して守衛す」と記されている。つまり、卑弥呼の宮殿は、部屋の他に高い建物があり、周囲は柵をめぐらしていて、兵士がいつも警備にあたっている、というのである。何とも近寄りがたい区域といったイメージであり、そこには「婢千人を以って自ら侍せしむ」とあることからわかるように、多くの婢のみが卑弥呼に仕えていることが記されている。このスペースは男子禁制の空間であり、一般の人びとの生活空間とは、一線を画していることがわかる。すなわち、俗の空間から隔絶された完全な聖の空間が卑弥呼の住まいなのである。住まいからも、宗教王としての卑弥呼の特殊性をかいまみることができるだろう。
監修・文/瀧音能之