なぜ、秀吉は千利休を切腹させたのか? 得意の「人心掌握術」が通じなかった理由
日本史あやしい話22
秀吉が茶道の師として敬意を払ってきた千利休。茶会を政の場と考えていた秀吉にとって、茶道の大成者である利休の存在は大きなものであった。それにもかかわらず、突如利休に切腹を命じた秀吉。いったい、なぜだったのだろうか?
■豊臣秀長と並ぶほどの実力者となった利休

千利休像
千利休といえば、誰もが知る茶道(わび茶)の大成者である。「茶聖」とも言われ、そうそうたる大名たちまで師と仰いだことから、政治にも大きな影響を及ぼした巨人であった。
生年は1522年というから、室町幕府12代将軍・足利義晴の時代である。交易で栄えた港町・堺において裕福な商家の子として生まれるも、19歳の時に父を亡くして家業が下火になり、苦境に立たされたこともあった。
それでも、実力者・三好氏の御用商人となったことで、財を成すことができた。同時に、この辺りから、若い頃より学び続けてきた茶の湯の腕前を活かすことができたようである。信長に茶人として召抱えられたことを皮切りとして、その大道を歩み始めたからだ。
信長亡き後は秀吉に仕えた。居士号である「利休」を正親町天皇より勅賜されたのも、この頃のことであった。禄も3千石を賜り、茶人としての名声はもとより、政にも大きく関わり合いを持つようになっていった。
秀吉(秀長だったとの説も)が大友宗麟に語ったところによれば、「公儀のことは宰相(秀長)に、内々のことは宗易(利休)に」と言ったとか。つまり、この頃の利休は、秀吉の異父弟で大納言の官位を得ていた秀長と並ぶほどの実力者であることを、秀吉自らが認めていたということになりそうだ。
■秀吉の逆鱗に触れて切腹?
ところが、その数年後の1591年、利休は突如、秀吉の逆鱗に触れたとして、堺への蟄居(ちっきょ)を命じられた。のちに都に呼び戻されたものの、なんと切腹を命じられるという最悪の事態を迎えたのである。
前田利家や古田織部、細川忠興などが助命に奔走したものの、結局、かなうことはなかった。利休の弟子たちが奪還を図る恐れがあったため、上杉景勝の軍勢が屋敷を取り囲んで、万が一に備えたとも伝えられている。
しかし、利休はこの理不尽な秀吉の命に抗うことなく自害したと言われる。撥ねられた首は一条戻橋に晒されたというが、大徳寺山門上に置かれた木像に踏みつけられるようにしてのことであったとか。秀吉の利休に対する憎しみの大きさがうかがい知れるお話である。
ただし、利休が本当に切腹したかはどうか、実のところ明確ではないことも記しておきたい。「切腹ではなく追放だった」との説がある他、晒されたという首も、本人のものだったかどうか疑問視する向きもあるのだ。
■「千利休像」を置いたことが不遜だった?
利休が実際に自害したかどうかはともあれ、切腹を命じられたというのは、どうやら本当のようである。それはいったい、なぜなのだろうか?
表向きの理由としては、大徳寺の山門の上に利休の等身大の木像を置いたことが、事の始まりだったと見られることが多いが、本当だろうか? 秀吉が門をくぐれば、利休の股の下をくぐることになる。それが不敬に当たるとの見方であるが、少々子どもじみて、信じきることはできそうもない。
しかも、木像を置いたのは寺側の好意によるもので、問題視されたのも、設置の1年後というのが奇妙である。一説によれば、利休の追い落としを目論んだ石田三成が、大徳寺内の対立を利用して、「利休に不正あり」と執拗に注進したことが発端だったとも。これも少々あやしい説と言えなくもないが、あり得そうなお話である。
その他、利休が提唱する侘び茶を秀吉が嫌っていたからとか、利休が秀吉の朝鮮出兵を批判したからとか、利休が茶器を高値で売るなどして私腹を肥やしたから等々、諸説が飛び交って収拾がつきそうもない。いずれも、決め手になるほどのものではなさそうだ。
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