家康との決戦を招いた大野治長の「妥協」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第28回
■幕府と豊臣家の妥協点を探す大野治長
方広寺鐘銘事件(ほうこうじしょうめいじけん)が起こると、秀頼の家老片桐且元(かたぎりかつもと)は「秀頼の参勤」「淀殿の江戸定府」「豊臣家の転封」など豊臣家にとって厳しい案を持ち帰りますが、この条件について豊臣家中で意見が分かれます。
治長は織田長益たちとともに、幕府へ「譲歩」しただけの講和条件に反対し、この意見対立から且元の大坂城退去に繋がります。
治長たちは講和条件に不満があったというよりも、武功を挙げたい織田頼長(おだよりなが)のような好戦派たちの暴発を警戒していたのかもしれません。当時、大坂城内には秀頼を追放して織田信雄(のぶかつ)を旗頭に据えて、一戦交えようとする者たちがいるとの情報を京都所司代の板倉勝重(いたくらかつしげ)が掴んでいました。このまま現状の講和条件を受け入れた場合に、好戦派が決起することが想定され、城内には安易な講和を許さない雰囲気が醸成されつつあったようです。
そんな状況下で治長は、幕府と形式的にでも一戦を交えつつ、単なる「譲歩」ではなく幕府と家中の双方が納得できる条件での「妥協」を目指していたのかもしれません。
そのため、大坂冬の陣では真田信繁や後藤基次(ごとうもとつぐ)の案である畿内制圧を行う積極策を避けて、大坂城での籠城という消極策を取ります。そして、治長たち穏健派の思惑どおりに、大坂城の一部を破却する代わりに、淀殿の関東下向を行なわず、豊臣家は本領安堵という条件で講和が結ばれました。
しかし、戦力増強の一環として集めてきた浪人衆の処遇はただの現状維持となります。
■現状維持を望まない好戦派の暴走
豊臣家は幕府へ対抗するため、各地の浪人たちを掻き集めましたが、それぞれの思惑はバラバラでした。身分の上昇や領地の回復、さらには幕府への復讐という私怨など様々です。そのため浪人たちは、現状維持でしかない状況に不満を募らせます。
治長は引き続き幕府との交渉を続けており、幕府からの浪人の解雇要求などを拒否していたにも関わらず、城内の不満分子によって襲撃されてしまいます。この暗殺は未遂に終わりましたが、好戦派の暴走は極まりつつあり、目的のために秀頼や淀殿たちにまで害を及ぼす危険性も高まりました。
治長と共に講和交渉を主導していた織田長益は、このような状況を見て「城内には自分の命令を聞く者もいなく、無意味である」と匙を投げ、家康の了解を得て大坂城を退去します。
こうして豊臣家は、好戦派に引きずられるように戦闘準備を始め、大坂夏の陣へと突き進んでいきました。豊臣家を見限って大坂城を脱出するものがいる中、治長は最後まで豊臣家の存続のため尽力しようと努力を続けます。
しかし、再度の講和交渉に持ち込めるような勝利を得る事ができず、敗戦が濃厚になります。
治長は最後の一手として秀頼の正室で家康の孫である千姫(せんひめ)を城から逃がし、秀頼たちの助命嘆願を試みますが、叶うことなく自害する結果になります。
■「妥協」が招く厳しい現実
元来は、治長も且元と同様に家康に認められて秀頼に仕えており、徳川豊臣間の調整役を期待されていたのは間違いないはずです。
治長たちは且元の完全服従ではなく、豊臣家の地位を保ったままでの妥協点を見出そうと尽力しました。しかし、その最初の「妥協」が逆に好戦派の勢いを強めてしまい、大坂夏の陣へと引きずられていく事になりました。ちなみに家康は、この「妥協」は長く続かないと予想し次戦の準備を始めています。
現代でも、組織が危機的状況にあるにもかかわらず内部への遠慮などで「妥協」したことにより、改革が進まず経営が頓挫してしまう事が多々あります。
もし、且元の講和条件を受け入れたタイミングで人員の整理や体制の変更をできていれば、その後に改易や転封はあったとしても、小大名や高家のような形で豊臣家の存続の可能性はあったと思われます。
これは危機的状況において組織内への「妥協」ではなく「果断」が重要だと感じる良い事例です。
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