戦争が「自殺ブーム」を収束させた?マスコミの自殺報道によって944人が命を絶った三原山事件
炎上とスキャンダルの歴史6
1933年、「若く美しいうちに死にたい」という病的な願いのもとにインテリ女学生が三原山で自殺。その死を新聞各紙がセンセーショナルに書き立てたことで、944人が命を絶つ「自殺ブーム」が巻き起こった。ブームの発生、そして収束の経緯はどのようなものだったのだろうか。
■マスコミから魔女のような扱いを受け、急死
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三原山(伊豆大島)
昭和8年(1933年)、伊豆諸島の大島の火山は突如として自殺の名所となり、「大炎上」してしまいました。この年の2月、火口に身を投げて自殺したのは、松本貴代子とその同行者の富田昌子。
ふたりは東京・渋谷の実践女子専門学校に通う、世間的に見ても、かなり恵まれたインテリ女学生でしたが、「若く美しいうちに死にたい」という貴代子の病的な願いは高まる一方で、気の弱い昌子が道案内役として巻き込まれてしまったようです。
しかし、松本のセンセーショナルな死が新聞各紙に書き立てられ、炎上すると、昌子の秘密も暴かれました。貴代子の死を見届ける一ヶ月ほど前にも彼女は大島を訪れ、自殺志願者の乙女を三原山火口まで連れていったのです。
その時、昌子が同行したのは同じ学校に通う、真許三枝子という先輩で、当時24歳だった彼女は虚弱体質なのを苦にしており、大島の火山で命を絶つことを決心しました。しかし、山頂に着いたとき、三枝子は昌子に「あなたがいると死ねないから、かえってちょうだい」と懇願し、昌子も三枝子を一人にしておとなしく下山してしまいました。三枝子はその後、火口に身を投げてしまったのですが、二人で来たのに一人で帰っていく昌子を見ても、この時は誰も怪しまなかったようですね。
松本貴代子の件は警察沙汰になったので、事情が違いました。昌子は帰京した後、実践女子専門学校上層部(校長・下田歌子は何度もスキャンダルを中心とした炎上を経験)からアドバイスを受け、埼玉県忍町の実家に身を隠すのですが、2月15日には「読売新聞」が「奇怪! 二度も道案内(中略)三原山に『死を誘う女』」という煽情的なタイトルの記事を掲載。昌子について興味本位な記事を書き立てると、各紙がいっせいにそれに従い、炎上は誰にも止められなくなりなりました。
それから3ヶ月あまり後、昌子が4月29日朝10時に急死しています。魔女のような扱いを受けた昌子は自宅に閉じこもっていました。彼女はずっと風邪っぽく、医師の診断書には「脳底脳膜炎」とあったそうですが、自殺の疑いが消えません。
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