血塗られた天皇史を「かぐや姫」の物語が伝えている!? 崇神天皇の残酷な所業とは
日本史あやしい話10
単なるお伽話と思われそうなかぐや姫の物語。しかし、実は『古事記』にも迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)としてその名が記されているばかりか、神功皇后がモデルだったとの説もある。また、葛城王朝を滅ぼした崇神天皇の被害者だったとの説まで掲げられることも。さらには、そのお話自体が、歴史の証言だったとも。果たして、その真相は?
■実在する!? 「かぐや姫」の貴公子たち
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賢女八景 筑紫帰帆 神功皇后(部分、東京都立図書館)
かぐや姫といえば、竹の中から生まれた少女が、絶世の美女として成長した後、言い寄る貴公子たちを袖にして月へ帰っていくというお話である。日本最古の物語ともいわれる『竹取物語』に記されたもので、日本で最も有名な説話の一つといえるだろう。もちろん、それが作り話である以上、史実とはとても言い難いと思われて当然である。
しかしこの説話、実はあながち全てが作り話とはいえない。まず、かぐや姫に言い寄ったとされる5人の貴公子たちのうち、少なくとも3人の実在が確認されていることもその一つである。まずはその辺りから見てみることにしよう。
最初は、「焼いても燃えない布」を求められた右大臣・阿部御主人である。まず彼は、れっきとした実在の人物である。第40代・天武天皇の功臣で、壬申の乱において功を成したと伝えられているのだ。また、「龍の首の珠」という実在するはずもないものを求められた大納言・大伴御行も、阿部御主人と同様、壬申の乱の際、大海人皇子(天武天皇)側に与している。
さらに、「燕が産んだ子安貝」なる珍奇なものを求められた石上麻呂は、壬申の乱に敗れた大友王子が自決するまで付き従った御仁。いずれも壬申の乱で活躍した実在の人物だったというのが、何かを示唆しているようで興味深いのだ。
残る二人が実在したかどうか定かではないが、「蓬莱の玉の枝」を求められた車持皇子を車持君氏の娘を母とする藤原不比等に、「仏の御石の鉢」を求められた石作皇子を第28代宣化天皇の4世孫の多治比嶋だと見なされることもある。
■『古事記』にも登場するかぐや姫
また、このかぐや姫が、迦具夜比売命の名で、かの『古事記』にも記されているのをご存知だろうか? 第11代・垂仁天皇の后で、父の名は大筒木垂根王(おおつつきたるねのみこ)である。叔父は讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)と丹波道主王(たにはのみちぬしのみこと)で、曽祖母は竹野媛(たかのひめ)。これらの名前の中に、物語としてのかぐや姫と関連のありそうなものが、いくつか潜んでいることに気付かれた方もおられるだろう。
父の名にある「筒木」と、叔父の名の「讃岐」、曽祖母の「竹」がそれ。「筒木」は、かぐや姫の里として近年とみに名が取りざたされることの多い山城国綴喜郡大住町(京田辺市)の中の「綴喜(つづき)」と音が同じ。「讃岐」は、かぐや姫を見つけて育ての親となった翁の一名「讃岐の造」の「讃岐」と同じ。さらに「竹」といえば、幼きかぐや姫が潜んでいた「竹」そのもの。あまりにも類似点が多いのだ。
さらに、京田辺市といえば、南九州から移住させられた隼人の居住地として知られるところで、彼らはもともと、竹細工技術や月神信仰を有した民族だったといわれる。同市に月読神社が数カ所点在しているというのも、何やら曰くありげだ。ちなみに、系譜の研究者としても名高い宝賀寿男氏によれば、隼人の原郷が中国江南の苗族やクメール族、チベット族だという。これも気になるところである。
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