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古代の「宮」や「京(都)」は、当時何と呼ばれていたのか?

「歴史人」こぼれ話・第34回

古代から用いられていた「宮」の表記

奈良県奈良市の平城宮跡に復原された「大極殿(第一次大極殿)」。約9年の歳月をかけ、2010年に開催された平城遷都1300年祭にあわせて復原、再建された。

 神武(じんむ)天皇は、初代の天皇である。日向国(ひゅうがのくに/宮崎県)から軍勢を率いて、瀬戸内海を東進(神武東征)。難波に上陸するが、豪族ナガスネヒコの軍兵に妨げられたことで、方向を変えて、熊野から大和に入り、同地の豪族を攻略したと伝わる。

 

 その即位は紀元前660年に、畝火(うねび/橿原市)の橿原宮(かしはらのみや)で行われたと言われている。神武天皇の活動は、奈良時代に成立した歴史書である『古事記』『日本書紀』に記されているが、そこには橿原宮(皇居)についてどのように書かれているのだろうか?『古事記』では「畝火之白檮原宮」(うねびのかしはらのみや)と記されている。

 

 そして、『日本書紀』には、「橿原宮」と記されており、いずれも当時から「宮」という表記が用いられていたことが分かる。神武天皇が橿原宮で帝位についた年、妃が皇子を産んだ。その時、天皇は「畝傍の橿原に宮殿の柱を岩の根元に立てて、高天原(タカマガハラ)に届くくらいにしよう」と言われたと伝えられている(『日本書紀』)。

 

 続いて、時代は下るが、平城京について見ていこう。平城京は、8世紀の前半(710年)に、藤原京から遷都されて営まれた奈良の都城である。784年に長岡京に遷るまで、約70年にわたって営まれた。では、その平城京は、当時、何と呼ばれていたのか?

 

 2015年、奈良市の平城京跡で、木簡が発見された。その木簡の表面には「奈良京申」と記されていた。これは「奈良京から申しあげる」という意味である。つまり、平城京は当時、「奈良京」と呼ばれていたことが分かる。

 

 では、平安京はどうか?平安京は、794年、長岡京からの遷都により営まれた。桓武(かんむ)天皇の時代であり「鳴くよウグイス、平安京」という語呂合わせで、遷都の年を覚えた人も多いだろう。

 

 平安時代後期に成立した歴史書『日本紀略』には平安京が「号して平安京と日ふ」と記載されている。平安京は現代では「へいあんきょう」と音読みされているが、かつては「たいらのみやこ」と訓読みされたこともあった。

 

 この「たいらのみやこ」には、「平らかで安らかな都」という願いが込められているという。『平家物語』(鎌倉時代前期に成立した軍記物語)にも「この京をば、平安城と名づけて、平らかに安き京と書けり」とある。

 

 さて、平安時代後期(1180年)、平清盛(たいらのきよもり)は、その平安京から遷都を試みる。いわゆる摂津国(せっつのくに)「福原遷都(ふくはらせんと)」である。安徳(あんとく)天皇・高倉(たかくら)上皇・後白河(ごしらかわ)法皇らが、平安京を出て、福原に向かったが、この事を、当時の貴族・九条兼実(くじょうかねざね)は「入道相国(清盛)、福原別業に行幸す。法皇、上皇、同じく、以て渡御す」と記している。

 

 同時代を生きた鴨長明は、随筆『方丈記』において、「福原遷都」について、「古京は、既に荒れて、新都は未だならず」(平安京は既に荒れているが、新都も未だ完成していない」と記している。

 

 また、同書には「津の国の今の京に至れり」(摂津国の新しい都に行った)との表現も見える。歌人・随筆家の鴨長明(かものちょうめい)は、都遷りで混沌とする当時の有様を簡潔かつ的確に捉えていると言えるだろう。

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濱田浩一郎はまだこういちろう

歴史学者、作家。皇學館大学大学院文学研究科国史学専攻、博士後期課程単位取得満期退学。主な著書に『家康クライシスー天下人の危機回避術ー』(ワニブックス)、『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社)、『「諸行無常」がよく分かる平家物語とその時代』(ベストブック)など。

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