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源氏が落ちぶれたのは、「白河法皇の陰謀」のせい!?

日本史あやしい話6


流人にすぎなかった源頼朝が、以仁王の宣旨を受けて挙兵して、あれよあれよという間に数万もの兵を結集。無事、鎌倉入りを果たせたのはなぜか? それはひとえに、高祖父・義家の武勇が鳴り響いていたことに後押しされたからであった。じつはその次男・義親も、豪快さでは義家をも凌ぐものであったが、乱暴狼藉が過ぎて誅殺されている。しかし、彼が悪行を働いたというのは、源氏の名を陥れるための謀略だったと言われることもある。それは、どういうことなのだろうか?


 

■「河内源氏」の名を高らしめた義家とは?

「大日本名将鑑」の八幡太郎義家(東京都立図書館)

 

 父・源義朝が平治の乱に敗れたことを契機として、伊豆へと流されてしまった頼朝。流人として悶々と過ごすこと20年。もはや源氏を再興するなど、夢のまた夢という状況だったはずである。北条政子と結ばれて北条氏の支援を受けることになったとはいえ、当時の北条氏は伊豆の一地域を領するだけの土豪にすぎなかった。

 

 それにもかかわらず、頼朝が以仁王の宣旨を受け取るや、わずか半年足らずで数万もの兵を結集して、源氏累代の本拠地・鎌倉に入ることができたのはなぜか?それは、ひとえに頼朝が、かつてその名を轟かせた河内源氏を引き継ぐべき御曹司であったからという他ない。

 

 では、そもそも河内源氏の名を高らしめたのは誰だったのだろうか? 真っ先に思い浮かぶのが、河内源氏3代目棟梁で、八幡太郎こと源義家である。初代と2代が礎を築いたとはいえ、その名を高らしめたのは、この義家にほかならない。義家の働きによって、坂東武者を傘下に収めて、武家の棟梁としての地位を確立できた。

 

 頼朝時代に至ってもなお、源氏にとってシンボル的な存在であり続け、武神となって崇め奉られていた。それが、後世の頼朝の躍進に大きな力となったことは間違いないのだ。ここでは、義家とはいったいどのような人物だったのか?から見ていくことにしたい。

 

■私財を投じて見せた武家の棟梁としての心意気

 

 義家が生まれたのは長暦3(1039)年のことであった。生誕の地は、河内国石川郡(大阪府羽曳野市)。父は河内源氏2代目棟梁・頼義で、母は桓武平氏の当主・平直方の娘である。7歳の時に石清水八幡宮で元服したところから、「八幡太郎」と称されるようになったことはよく知られるところだ。

 

 鎮守府将軍として安倍氏と戦った「前九年の役」(1051〜1062年)で、父・頼義とともに参戦。その後の「後三年の役」(1083〜1087年)では、自らが陸奥守に任じられて清原氏を制覇。武人としての活躍ぶりを世に見せつけたのである。

 

 ただし、この時の戦いが朝廷から私戦と見なされたことで、恩賞が出ることはなかった。それでも、義家は私財を投じて部下に分け与え、武家の棟梁としての心意気を見せつけた。これが功を奏して、坂東武者たちの信望を集め、「天下第一の武勇の士」とまで讃えられるようになっていった。

 

 こうした義家の名声が、のちの時代の頼朝挙兵時にも思い起こされた。義家の恩義に感じ入った武者たちの子孫が、それに報いんと結集したのである。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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