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源氏が落ちぶれたのは、「白河法皇の陰謀」のせい!?

日本史あやしい話6

 

■白河法王に陥れられた義親の悲運

 

 この義家の武人としての名声はいうまでもないが、その次男として生まれた義親(よしちか)もまた、父に劣らぬ豪快な人物だったようである。兄の義宗が早世したことで、河内源氏の棟梁の座を継いでいる。

 

 ただし、父の威光もあって対馬守に任じられたのもつかの間、九州に着任するや、略奪を働いた上、官吏をも殺害するという蛮行を働いたとされている。これを咎められて隠岐に流されたものの、今度は配流先から逃げ出して出雲へ。ここでもまた官吏を殺害して、官物まで奪取する始末。とうとう平正盛に誅殺されてしまった。

 

 ところが、この義親の武名が世に轟いていたことから、「剛勇の義親が簡単に捕縛されることなどあり得ない」として、多くの人がその死を信じなかった。そして、義親を自称する者がたびたび現れて世を惑わしていたと言 い伝えられている。生身の人間ではない虚名だけが一人歩きして、さまざまな伝説を生み出していったのである。

 

 なお、ここで一言断っておかなければならないことがある。それが、「法皇による謀略説」である。摂関家に与していた河内源氏の勢威をそぐために、白河法皇が義親を陥れて悪者に仕立て上げた、と見なされることもあるのだ。真偽は未だ定かではないが、義親の蛮行をそのまま鵜呑みにすべきではないだろう。そろそろ義親を再評価すべきとも思えるが、果たしてどうであろうか?

 

■義親と孫の為朝が遭遇?

 

 義親を小説の中とはいえ、再評価した御仁がいる。それが、『鎮西八郎為朝』を著した南條範夫氏であった。その小説の中に義親を登場させ、孫にあたる為朝と遭遇させて、共に平家打倒を唱えて暴れさせたのだ。よく似た性格のうえ、共に一度は鎮西(九州)を制覇したことがあるという御仁同士。二人を出会わせての活躍ぶりを見てみたいとの思いは、よ〜く理解できる。

 

 ただし、義親が死んだのは、通説によれば1108年。為朝が生まれたのは、それから30年以上も過ぎた1139年のことである。本来なら二人が出会うことは、あり得ないはず。とはいえ、義親の死が遥か後世であったとの伝承もあるから、それを信じれば、可能かもしれない。むしろ期待を込めて、伝承のほうを信じたくなってしまうのだ。

 

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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