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長篠城を救った鳥居強右衛門の「辞世の句」と「忠義」

史記から読む徳川家康㉑


6月4日(日)放送の『どうする家康』第21回「長篠を救え!」では、長篠城救出に向かう徳川家康(とくがわいえやす/松本潤)の陣営の様子が描かれた。家康は織田信長(おだのぶなが/岡田准一)に援軍を求めたが、そのために提示された条件は、家中を左右するような重大な内容だった。


 

武田軍との直接対決が間近に迫る

愛知県新城市にある、鳥居強右衛門が磔刑(たっけい)にされたと伝わる場所。強右衛門の最期は、複数の鑓に突かれた様子が広く知られるが、他にも2本の鑓で刺し上げられた、刀で斬られたなどの説がある。

 武田軍に囲まれた長篠城は兵糧(ひょうろう)も尽きかけ、落城寸前だった。

 

 城主の奥平信昌(おくだいらのぶまさ/白洲迅)は、徳川家康に援軍を要請すべく、家臣の鳥居強右衛門(とりいすねえもん/岡崎体育)を岡崎城に派遣した。

 

 武田軍と徳川軍との兵力差は三倍もの開きがある。このまま救援に向かっても歯が立たないと考えた家康は、同盟相手である織田信長に派兵を依頼する。ところが、織田家家臣の佐久間信盛(さくまのぶもり/立川談春)と水野信元(みずののぶもと/寺島進)は明らかに兵を出すのを渋っている。同盟相手に対してあまりに非協力的な態度に出る2人に怒り心頭の家康は、兵を寄越(よこ)さなければ織田家と手を切る、と言い放った。

 

 果たして2日後、信長は3万の軍勢を引き連れて岡崎城へとやってくる。加えて信長は、家康の望み通り織田・徳川の同盟を破棄すると宣言。さらに、織田家の家臣になるよう迫った。その場に居合わせた強右衛門、瀬名(せな/有村架純)、亀姫(かめひめ/當真あみ)の取りなしを受けた信長は、「ほんの余興」と応えて、その場を収めた。戸惑う家康は、それでも信長に対する不信感を拭うことができない。

 

 織田・徳川が救出に向かっていることを伝えに急ぎ長篠城に駆けつけた強右衛門だったが、城にたどり着く寸前で武田軍に捕縛。城兵らの目の前で処刑されてしまうのだった。

 

長篠城救出の影で危機を迎えていた織田・徳川の同盟

 

 1575(天正3)年5月初旬、徳川家康は家臣の石川数正(いしかわかずまさ)と長篠城(愛知県新城市)を守らせていた奥平信昌の父・奥平定能(さだよし)を岐阜城に派遣している。織田信長に長篠城への出陣を要請するためだ。

 

 ところが信長は、家康から再三にわたって援軍の要請をされていたにもかかわらず、本願寺勢力との戦いなどを理由に断り続けていた。業を煮やした家康は、信長にこう言い放ったという。

 

「此度御出陣これ無くば彼の申合の起請は其方より御破りなされ候次第なり斯くなる上は止むを得ず勝頼に遠州を遣し我等は三河一國にて罷在勝頼と連合して尾州に打つて出づべし遠州の替地に我等勝頼の先鋒となりて働き候はゞ恐らく尾州は一日の中に申受くべし」(『長篠実戦記』)

 

 つまり、加勢がなければ武田勝頼(たけだかつより)と和睦し、武田の先鋒となって信長の所領である尾張(現在の愛知県西部)を攻め取るだろう、というのである。信長はこれに驚いて援軍を出すことになったらしい。

 

 このような脅しが実際にあったかどうかはさておき、いずれにせよ信長は「三河(みかわ/現在の愛知県東部)の滅亡は織田家の危機」として、5月中旬の出陣を家康に約束した(『当代記』)。

 

 言葉通り、信長は同月13日に嫡男・信忠(のぶただ)とともに出陣。翌14日に岡崎に着陣している(『信長公記』「細川家文書)。

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小野 雅彦おの まさひこ

秋田県出身。戦国時代や幕末など、日本史にまつわる記事を中心に雑誌やムックなどで執筆。近著に『「最弱」徳川家臣団の天下取り』(エムディエヌコーポレーション/矢部健太郎監修/2023)、執筆協力『歴史人物名鑑 徳川家康と最強の家臣団』(東京ニュース通信社/2022)などがある。

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