「赤壁の戦い」で負けた曹操を、関羽が討たなかったのは小説の創作にすぎないのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第79回
西暦208年、「赤壁(せきへき)の戦い」は、兵力で圧倒的優位な曹操(そうそう)が、孫権(そんけん)と劉備(りゅうび)の連合軍に敗れた逆転劇である。小説『三国志演義』で、その撤退劇のさなかに描かれた曹操と関羽(かんう)のドラマチックな再会は作中屈指の名場面。その「物語」には、一体どのような意味が込められたのだろうか。
■撤退中、ぬかるみに落ちて死ぬ兵も多数・・・

連環図画三國志より 曹操を見逃す関羽(世界書局・中華民国十六年)
孫権と劉備の軍勢に船を焼かれ、烏林(うりん=赤壁の対岸)の陣営を捨てて撤退にかかる曹操軍。正史「武帝紀」(曹操伝)の本文に、その模様は記されていない。ただ、そこに引用される史料の描写からは悲痛な情景が伝わってくる。
「公(曹操)は華容の街道を歩いて引き上げたが、道は泥濘(ぬかるみ)にふさがれ、大風にも見舞われた。疲れ弱った兵に草を背負わせて泥濘を埋めさせ、騎兵はやっと通ることができた。弱った兵は人馬に踏みつけられ、泥のなかに落ち、死ぬ者が甚だしく多かった」(『山陽公載記』)
一敗地にまみれた敗残兵たちの憐れな描写に、目を覆いたくなる。曹操、その側近らも、まさに命からがらの華容道(かようどう)撤退であった。ただ、そこはただで転ばぬ曹操。引きあげながら言い放った。
「劉備はわしと同等で大した奴だが、計略を考え着くのが少し遅いな。先に素早く火を放てば、わしらは全滅だったろうに!」
この負け惜しみのセリフで、曹操が名を挙げるのは諸葛亮(しょかつりょう)でも周瑜(しゅうゆ)でもない。劉備なのだ。実際、魏の公式記録「武帝紀」にも「赤壁で劉備と戦って負けた」と書かれており、孫権の名前はない。眼中にない、といわんばかりのところが興味深い。
その後、曹操は江陵(南郡=現在の荊州)へ逃げ延び、そこを副将格の曹仁(そうじん)に守らせ、北方へ逃走する。『三国志演義』第50回では、この曹操の逃走劇はたっぷり脚色され、ドラマチックに描かれる。
■関羽が伏兵の「真打ち」として登場する理由
曹操は張遼(ちょうりょう)や徐晃(じょこう)らに守られ、やっとの思いで孫権軍の追撃を振り切る。一息つくと「周瑜も諸葛亮も大したことがないな。わしなら、このあたりに兵を潜ませておくに」と笑うが、その言葉が終わらないうちに趙雲(ちょううん)や張飛(ちょうひ)の伏兵に襲われて逃げまどう。
だが、趙雲も張飛も曹操を脅すだけで深追いしない。なぜなら、その後に真打ちの登場が待っているからだ。真打ちとは、関羽その人のことである。
散々に討ち減らされて曹操軍は華容道に入る。その行く手に、赤兎馬に踏みまたがった関羽が立ちはだかった。疲弊の極みにある曹操は観念するが、傍にいた程昱(ていいく)が耳打ちする。「今こそ、関羽にかけた恩にすがるべきですぞ」と。
彼がいうとおり、かつて関羽は一時的ながら曹操軍に降っていたことがあり、しばらくして劉備のもとへ戻っている。そこで、曹操は思いなおして関羽に語りかけるのだ。
「将軍、一別以来だな。お変わりはないか」
「軍師の命を受け、丞相(曹操)をお待ちしておりました」
「いまや、わしはこの通りの身だ。どうか昔の誼(よしみ)を重んじてはくれまいか」
情に訴える曹操に、関羽は「顔良・文醜を斬って既に恩は返した」という。だが曹操は「五関で守将を斬った行ないを咎めなかったのをお忘れか」と、なおも昔のことを持ち出して関羽を惑わす。
そして関羽は、曹操軍の将兵が抵抗もあきらめ、命乞いする有りさまにも心を打たれ、ついに見逃すのだ。「わしにこの者達は討てぬ」(横山光輝『三国志』)というわけである。義理堅い関羽が旧恩を曹操に返す「演義」屈指の名場面といえよう。
本場における『三国志演義』普及版の編者、毛宗崗(もうそうこう)は、この場面の関羽の行ないを「最大の義」と評している。関羽は同じく「演義」のなかで献帝に無礼を働く曹操を斬ろうとして、劉備に止められる場面がある。毛宗崗は、これは献帝や劉備に対する「忠」とする。
そして、華容道での関羽は諸葛亮の軍令に背いて曹操を見逃した。軍令違反での処刑を覚悟しての行為で、これこそが「義」であり、つまり関羽は「忠義」を体現して見せたことになるのだという。これこそが「演義」第50回が大いなる見せ場となった要因であろう。
さて、ここで史実に立ち戻ろう。もちろん、この華容道の話は正史にはない。撤退する曹操に劉備軍や関羽の手勢が肉薄した事実も、おそらくなかったと思われ、あくまで創作された話であるのは確かだろう。正史を見る限り、関羽が曹操のもとを去って以降、再会した形跡はない。219年、孫呉に殺害された関羽が「首」だけの状態で曹操のもとに届けられるだけだ。

赤壁の戦い、両軍の進軍・退却ルート 作成:ミヤイン(参照:中国歴史地図集など)
■もし現実に華容道のような場面があったら
もし現実に華容道のような場面があれば、曹操はためらいもなく討たれていた可能性が高い。しかし「演義」のような展開もありえたのではないかとも思える。正史を読み込むと、曹操と関羽主従との「敵味方を超えたつながり」が、決して創作ではないことがわかるからだ。
たとえば「武帝紀」にある白馬の戦い(200年)で、曹操は袁紹(えんしょう)軍の大将・顔良(がんりょう)を迎え撃つにあたり、張遼と関羽を先発させる。そして両将は見事なコンビネーションを見せ、関羽が敵軍のまっただ中で顔良を討ち取るのだ。
曹操は関羽を厚遇するが、関羽はその贈り物にことごとく封印をして劉備のもとへ帰る。それを知らされた曹操は「追ってはならない」と、黙って見逃した。このくだりは「演義」のつくり話ではない。正史(蜀書「関羽伝」)に示されているとおりで、両者の精神的なつながりを想像させる。
さらに後年、関羽は樊城(はんじょう)攻めで徐晃と交戦するが、そのとき陣頭で思い出話を交わす場面がある(『蜀記』)。同郷でもあった2人は、関羽が曹操軍にいた同僚時代に親しくしていたのだろう。結局、私情を捨てた徐晃に攻撃されてしまうが、その行ないを見る限り、関羽には「情」に脆いところがあったと思わせる。
もし、華容道で待ち伏せていた関羽が曹操と出会っていたら「問答無用」と斬り捨てるのではなく、まずは思い出話から入ったのではないだろうか。そんな「甘さ」は職業軍人としては失格かもしれないが、正史の関羽には、どこかそう思わせる人間味がある。
傲慢で自信過剰とされ、それがために身を亡ぼすことになったといわれる関羽。しかし、同時代に彼の情に触れ、魅了された人間も少なくなかったのではないか。それもあって曹操は彼を生かそうと考えたのかもしれないし、そのことが時代や国境をも超えて語り継がれた。それが後世に「神」として崇められる存在にまでなりえた要因にも思えてならないのである。