家康に愛され、秀忠から疎まれた本多正純の「自負」
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第22回
■実績から生まれる正純の自負
正純は駿府の家康の元で、徳川幕府の障害となる豊臣家の排除のために奔走し、功績をあげてきました。大坂の陣では開戦前の交渉から戦後の和議などの外交だけでなく、大坂城の堀の埋め立てや真田信繁(さなだのぶしげ)への調略などまで幅広く担当しています。
これらの実績から、幕府の権力強化に貢献してきた自負は非常に強いものがあったと思います。実際に、同僚であった安藤直次(あんどうなおつぐ)や成瀬正成(なるせまさなり)が御三家の家老へと転出していく中、正純は最後まで家康の側近として仕えています。家康から厚い信頼を受けていた事も、正純の自負を強めた要因の一つと考えられます。そして、家康の死後、江戸に移り秀忠の側近として引き続き中枢に留まります。
秀忠の下ではこれまでの功績を評価され、2万石加増により5万3,000石となりました。正純は秀忠政権においても強い自負を持って臨んだのかもしれませんが、逆にその強い覚悟を秀忠やその側近からは疎まれるようになります。
■秀忠やその側近たちとの軋轢
軋轢の原因のひとつとして、福島正則(ふくしままさのり)の改易への反対があると言われています。正純は世情の混乱を避けるため、福島家の改易を回避するよう努めましたが、最終的には秀忠たちに押し切られたようです。この時、正純は諸大名への通達を行う役を担い、その功績により宇都宮15万5,000石を拝領します。
自負心の強い正純は、何も武功がない事を理由にこの加増を固辞または返上しようとしたと言われています。将軍の好意であっても、納得できないものには毅然とした対応を見せます。
秀忠の意向に度々反対する姿勢は正純の傲慢(ごうまん)さとして映っていたようです。徳川幕府の創業を支えてきたという自負は、正純をさらに苦境へと追い込んでいきます。
正純の奉公不足を理由に、最上家改易による山形城の受け取りという大仕事の最中に、突如として出羽由利5万5,000石への減転封(げんてんぽう)を言い渡されます。
しかし、謀反などありえない正純は毅然とした態度で、この減転封を固辞します。これがさらに秀忠の逆鱗に触れ、本多家は取り潰しとなり、正純は罪人として流罪となります。出羽横手において、過酷な軟禁生活を送ることになりました。
これは正純の強い「自負」が秀忠への盲従を許さず、本多家の凋落を招いたように見えます。
■強すぎる自負はマイナスの効果を生む
正純はそのまま罪を許されることなく、1637年に出羽横手で幽閉されたまま死去します。その罪が許されるのは、1664年のことで孫の正之の時代までかかります。
すでに四代将軍家綱(いえつな)の治世であり、幕閣がすべて入れ替わるまで時間を要している点や、大名としての復帰が叶わなかった点からもその罪の重さを感じます。
もし、家康の側近として幕府設立に貢献したという自負を捨てて、秀忠に対して謙虚に仕えるか、世代交代の流れに身を任せて速やかに隠居していれば、本多家は大名として存続できたかもしれません。
ただ、正純はそのような事ができる性格ではなかったと思います。
現代でも、先代社長の下で活躍してきた古参社員が、後継者や若手幹部候補などから煙たがられる事はよくあり、後継者が実権を握った時点で閑職へと追いやられるケースは日常茶飯事です。
強すぎる「自負」は、環境の変化によっては大きな欠点になり得るので注意が必要です。そういった点で、正純はどこか石田三成に通じる点があるように思います。家康が関ヶ原の戦いで敗れた三成の身柄を正純に預からせたのも、何か教訓を学ばせる意図があったのかもしれません。
- 1
- 2