御家存続への想いを「承継」できなかった堀直政
武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第20回
■息子たちに「承継」できなかったもの
直政の死後、家督や遺領三条5万石は長男直清(なおきよ)が継承します。同時に堀家の執政職の地位も直清が引き継ぎました。次男(または三男)の直寄(なおより)は、自力で越後坂戸と蔵王堂の合計5万石を領し、堀家の重臣として仕えます。
しかし、堀家を支えるべき直清(なおきよ)と直寄の兄弟間で対立が生まれ、越後福嶋騒動と呼ばれるお家騒動にまで発展します。対立の発端は、直政が長男直清に自身の遺産を継承させ、豊臣家の人質として苦労した直寄に継がせなかった事だと言われています。
兄弟間の感情的な対立は激化し、直清は当主の忠俊を通じて直寄を堀家から追放してしまいます。
そして直寄が、この件を幕府に訴え出た事で、兄弟間の確執が家康の裁定を受けるほどの大問題に発展します。家康は直清だけでなく、当主の忠俊にも問題があるとして、堀家は改易となり二人は配流されてしまいます。また、訴え出た直寄にも問題があるとして、1万石の減転封とされます。兄弟の争いは豊臣恩顧を排除したい幕府に、付け入る隙を与えただけでした。
こうして直政が命を懸けて守ろうとした堀家は、死後たった4年で失われる結果となりました。
■「承継」は非常に難しい課題
直政が秀政から秀治、忠俊と三代に仕えながら、必死に守ってきた堀家は、息子たちの対立により取り潰しとなりました。その後も堀家再興が叶わず、堀家の嫡流は途絶えてしまいます。
一方、直寄は着実に家康(いえやす)、秀忠(ひでただ)、家光(いえみつ)の信任を得ていき、越後村上10万石にまで出世していきます。明治まで直政の祭祀は引き継がれていったので、戦国時代の習わしとしては本望なのかもしれません。しかし、直政の本望はそれだけではなかったのではないかと思います。
もし、自身の堀家存続への想いを息子たちに「承継」できていれば、改易を招くようなお家騒動は避けられたかもしれません。
現代でも、企業などにおいて創業の精神や社会的使命などを言語化・文章化して、次の世代に想いの「承継」を図ろうと努力しています。しかし、目に見えない物を受け継ぐのは非常に難しく、形あるものだけしか「継承」されない例が多いのが現状です。
同様に、秀吉からも賞されるほどの名将直政をもってしても、想いの「承継」は難易度が非常に高い課題だったようです。直政の例は「承継」の困難さを物語る良い事例だと思います。
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