曹操に敗れた袁紹は、なぜ軍師たちの助言を無視したのか?
ここからはじめる! 三国志入門 第76回
攻勢に転じたが、またも策を却下された両名

200年の勢力図。作成:ミヤイン(参考『中国歴史地図集 第二冊 秦・西漢・東漢時期』中国地図出版社 他)
一ヵ月後、袁紹は曹操を攻めた。このとき田豊と沮授(そじゅ)は曹操軍の糧食不足を指摘。圧倒的優位な物量を頼みに「持久戦を行なうべき」と主張する。しかし、対立派の郭図(かくと)らが「短期決戦」をとなえ、袁紹は後者に従った。
「短期決戦は曹操の思うつぼ、必ず負けます」と食い下がる田豊だが、ついに袁紹の怒りを買った。「出陣前に士気を削いだ」罪で、獄につながれてしまう。日頃からの逢紀(ほうき)の讒言が理由だったという。
かたや沮授は渋々、従軍したが、自軍の兵糧拠点の守りが手薄なことに気付く。そこで別働隊を派遣すべきと主張したが、袁紹はこれを無視してしまう。結果、まんまと曹操に兵糧庫を破られ、袁紹軍は大敗を喫した。
このとき沮授は、進言が却下されたあげく、軍権を放棄しており、すでに実権を持っていなかった。それなのに従軍させられたのは、嫌がらせの意味もあったのかもしれない。沮授は逃げる途中で曹操軍の捕虜になり、降伏を拒んで斬られた。
「私がもっと早くに君(沮授)を味方にできていたなら、天下の平定は考える暇もないほどに簡単だったであろう」と曹操はいった。
獄中の田豊は「これで私の運命も終わりだろう」とみずからの最期を予期した。はたして、袁紹は「彼はわしを笑いものにするだろう」と言い、田豊の処刑を命じた。曹操はそれを聞くと「もし、袁紹が彼を戦場に連れてきていればどうなっていたか」と胸をなでおろしたという。まあ、すべては結果論である。
的確な進言をしながら、ことごとくはね付けられてしまった田豊と沮授。楚漢戦争で項羽(こうう)に仕えた范増(はんぞう)なども主君に策を用いられなかった軍師として知られるが、袁紹はそれを知らなかったのだろうか。
田豊は強情な性格で、時に主君に逆らってでも自分の意見を押し通そうとする面があった。また、同僚ウケも悪かったという。一大軍閥であった袁紹軍の中では浮いた存在だったのかもしれない。沮授に関しては、晩年に軍権を手放し発言権も失っていたことが大きい。やはり、彼にも反対派の横やりが入ったのかもしれない。
皮肉なことに田豊、沮授の死から2年後、袁紹も病を得て世を去った。かくして曹操が覇権を握ったのだが、袁紹が少しでも両名の策をとり入れていれば、結果はまた違っていたのかもしれない。
組織には派閥がつきもの。その一員であれば、そこでの身の処し方も重要だし、またトップの側も、対立しがちな部下をいかにまとめ、うまく使うかという資質が問われる。この両輪がかみ合わないことには良い組織とはいえない。袁紹軍はその典型だったといえよう。生身の人間同士は、ゲームのように簡単にはいかない。もし自分がその組織の一員だったらと考えると……胃が痛くなりそうである。
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