信長との「同盟強化」を目的とした家康の上洛
史記から読む徳川家康⑬
ちなみに、ポルトガルの宣教師であるルイス・フロイスが信長に初めて謁見したのは同年4月8日で、場所は二条御所の工事現場だったという(『日本史』)。
同月16日に、信長は荒廃していた内裏(だいり)の修理も命じており(『言継卿記』)、幕府・朝廷という既存の権力機構に対して心を砕いていることが分かる。前回のドラマで描かれた、今川氏真(いまがわうじざね)が家康に降伏し、懸川城を退去した(『歴代古案』)のは、この翌月5月15日のことである。
翌1570(永禄13)年1月になると、信長は前年の御掟に追加する形で五ヵ条からなる条書を義昭に認めさせている(「成簣堂文庫所蔵文書」)。前述したのと同様に、これらが両者の不和を招いたとする見方がある一方、近年は一定の疑問も呈されている。
今回のドラマに描かれた家康の上洛は、このタイミングで行なわれたものだ。家康は同年2月、岐阜で信長に面会している。その席で家康は、上洛するという信長に従うことを自ら申し出た。家康には、信長と行動を共にすることで同盟をより強化する思惑があったものと考えられている。
信長は同年3月5日に上洛。このとき、畿内の大名らもこぞって上洛し、信長に挨拶にやってきて、京は大変な賑わいをみせたという。その顔ぶれのなかに、家康の姿もあった(『信長公記』)。
同年4月14日に、二条御所の完成を祝う、能の会が催された。義昭や信長らとともに、家康も会に同席している。越前への出陣は、能の会から4日後となる同月20日のことである(『信長公記』)。
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