イケメン俳優・李東学の出世作!! 『宮廷の諍い女』で演じた<果郡王>とはどんな人物だったのか?
中国時代劇ドラマと史実
■雍正帝から全幅の信頼を置かれていた名将

雍正帝の陵墓
河北省易県永寧山の清西陵にあり「泰陵」と呼ばれる。奥の建物は明楼、手前の鳥居のようなのは二柱門である。
中国では高視聴率を叩き出し、一種の社会現象をも巻き起こしたテレビドラマを「神劇(神ドラマ)」という。2012年制作の『宮廷の諍い女(きゅうていのいさかいめ)』(原題は『甄嬛伝』/しんけいでん)もそんな「神劇」の一つだった。
同ドラマはネット小説を原作とし、そこでは架空の世界を舞台とした。ドラマ化するにあたり、清王朝の雍正帝(ようせいてい/在位1722~1735)時代の物語としたため、史実との間にかなりの齟齬(そご)が生じているが、よくよく考えれば日本の『水戸黄門』や『暴れん坊将軍』にもそのような要素があるので、あまり目くじらを立てる必要もなかろう。
本作品の主人公は甄嬛という女性。後宮に入れられた彼女が派閥争いに勝ち残り、後宮ばかりか、ついには朝廷のトップに立つまでになるが、そんな彼女と相思相愛の関係で、陰に陽に手を差し伸べる役どころなのが、雍正帝の異母弟にあたる果郡王(かぐんおう)である。
演じるのは、イケメン俳優の李東学(リートンシュエ)。李はこの作品により、同年大晦日に開催の「第4回国劇盛典」で最優秀新人賞を受賞。一気に仕事の依頼が増え、主演もまわってくるようになったのだから、彼にとって『宮廷の諍い女』と果郡王役は記念すべき出世作だった。
この果郡王というのは実在の人物である。雍正帝の先代にして実父でもある康熙帝(こうきてい)の第17子で、本来の姓名を愛新覚羅・胤礼(アイシンギョロ・ユンリ)という。
康熙帝は清代屈指の名君だが、晩年には後継者問題に悩まされた。のちの歴史家から「九王奪嫡」(きゅうおうだっちゃく)と呼ばれる内乱一歩手前の暗闘が展開されたあげく、四男の胤慎が勝利を収め、康熙帝の崩御に伴い、即位した。これが雍正帝である。
康熙帝には30人以上の男子がいて、そのうち夭折を免れ、成人したのは24人。そのうち9人が次期皇帝の座を巡り争ったわけで、雍正帝は敵対した兄弟には容赦しなかったが、味方した者、中立を堅持した者には厚遇を施し、後継者争いに一切加わらなかった胤礼は雍正帝の即位に伴い、果郡王に封じられた。
ここに出た「郡王」という肩書は爵位のようなものと思ってよい。清の皇族男子には必ず、上から以下の肩書が与えられた。
和碩親王(ホショ・イ・チンワン)→親王→郡王→ベイレ(貝勒)→ベイセ(貝子)公→タイジ(台吉)
胤礼は果郡王に封じられるとともに、理藩院の統括を任された。理藩院とはモンゴル・ウイグル・チベットなど属国相手の外交を司る中央機関で、康熙帝から可愛がられ、9歳のときから何度も外征に随行。異国の事情に精通した彼はまさに適任と言えた。
これとは別に、胤礼には軍職も与えられた。通常の郡王であれば、最低限の身辺警護を除いて、兵力の保有が許されなかったのと比べると、胤礼の処遇はかなり特殊だった。大事な儀礼において皇帝の代理を務めることもあるなど、雍正帝から全幅の信頼を置かれていた様子がうかがえる。
ドラマ中の胤礼は、雍正帝から甄嬛との関係、甄嬛の産んだ双子の実の父ではないかと疑われたあげく、甄嬛を守るために毒酒を飲んで絶命しているが、実際の胤礼は一連の働きが認められ、1728年には和碩果親王に昇格。それからも工部や戸部、宗人府などの要職を歴任し、雍正帝の臨終にあたっては、次期皇帝・乾隆帝(けんりゅうてい)の輔政役7人のうちの1人に指名されている。

泰陵妃園寝
雍正帝の后妃たちが眠る「泰陵妃園寝」。円柱の造形物は盛り土に代わるもので、「宝頂」という。
乾隆帝も胤礼の忠勤についてはよく聞かされていたので、土下座して額を地につける「叩頭の礼」を免除するなど、さまざまな特典を与えた。さらに40歳を過ぎて体力の衰えが目立ち始めると、できるだけ無理をさせないよう気遣った。
胤礼が亡くなったのは乾隆3年(1738)のこと。42歳という早すぎる最期だった。実子はいたが、彼より早くに夭折していたので、雍正帝の六男・弘膽(ホンシー)が家督を継承した。
なお、雍正帝の死因は過労死のようだが、民間では復讐による暗殺説、それも女性の手にかかったとする話がまことしやかに語り継がれた。