すでに冷めきっていた…? 家康と築山殿の「夫婦仲」
史記から読む徳川家康⑩
のちに築山殿に訪れる悲劇に対する正当化のためか、後世にまとめられた書物に描かれる人となりは、ひどくこき下ろされたものが少なくない。
一般的には、桶狭間(おけはざま)の戦い以降、家康と築山殿の夫婦仲は冷めきっていた、といわれている。築山殿の実家である関口氏は今川家の重臣。反今川路線をひた走る夫に対し、築山殿の心底に少なからず反発心があったと考えても不思議ではない。
なお、劇中で触れられた「将軍様、お討ち死に」とは、1565(永禄8)年に二条御所が襲撃され、足利義輝(あしかがよしてる)が死去したこと(『言継卿記』)を指している。
足利義輝は室町幕府13代将軍で、各地で抗争状態にあった武将の調停に尽力するなど高度な政治手腕を発揮しており、「天下を治むべき器用あり」(『穴太記』)と高く評価されていた将軍である。
事件のきっかけとなったのは、義輝とことあるごとに対立していた三好長慶(みよしながよし)が亡くなったこと。長慶亡き後の三好家の実権を掌握した松永久秀(まつながひさひで)が、勢力のさらなる伸長を図るべく、何かと障害になっていた義輝を襲ったのである。
武士による将軍襲撃は、全国の武将たちを震撼させた。朝廷や一般庶民の間にも動揺が広がったといわれ、この時代の大きな転換点のひとつとなった。
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