斬殺されて祟り出たという伊達政宗の家臣・山家公頼とは?
鬼滅の戦史119
伊達政宗(だてまさむね)に命じられ、惣奉行(そうぶぎょう)として宇和島藩に送り込まれた山家公頼(やんべきんより)。しかし、政宗の庶長子で、初代宇和島藩の藩主となった秀宗との確執の挙句、一族もろとも斬殺されるという悲運に見舞われた。それはいったい、なぜだったのだろうか?
伊達政宗に命じられ宇和島の地へ

山家公頼の怨霊を鎮魂するために創建された和霊神社(愛媛県宇和島市和霊町)。
仙台藩主・伊達政宗の家臣であった、山家公頼(通称・清兵衛)という御仁をご存知だろうか。政宗が、大坂冬の陣に庶長子・秀宗(ひでむね)とともに参戦し、その功によって伊予国宇和島郡に領地を賜って宇和島藩を立藩したのが慶長19年(1614)のこと。その初代藩主として秀宗を就かせた上で、惣奉行として仙台から宇和島へと送り込まれたのが、この公頼であった。
政宗の命を受けて宇和島藩を任された訳だから、筆頭重臣として意欲を燃やしていたに違いない。共に仙台から派遣された、俗に「五十七騎」と呼ばれた家臣たちと共に、藩の運営に力を注いだのであった。
ところが、公頼の役割は、いわば藩主・秀宗のお目付役としての意味合いもあったようで、秀宗にとってみれば、「煙たい」存在であった。ことあるごとに、秀宗に対して小言でも言ったのだろう。しかも、父・政宗に注進することしきり。当然のごとく、両者が対立していくのも時間の問題であった。
加えて、伊達家譜代の家臣であった桜田元親(さくらだもとちか/公頼は、元は山形藩最上氏の家臣であった)までもが、秀宗と結託。公頼追い落としの計が練られるようになっていったのだ。
政宗の庶長子・秀宗に憎まれて斬殺
事件が起きたのは、元和6年(1620)6月29日のことであった。秀宗の命を受けた桜田元親の家臣たち(元親本人は大坂にいて不在であった)が、公頼の屋敷を襲撃。挙句、公頼を斬殺してしまったのである。そればかりか、公頼の次男、三男の他、娘婿とその二人の子も斬殺。さらには、公頼のまだ9歳でしかなかった四男までも井戸に投げ込むという、何とも酷い仕打ちまで加えたのである。
これを命じた藩主・秀宗とは、元々、伊達家保身の為の人質として、秀吉(ひでよし)や家康(いえやす)に預けられていたという御仁であった。自らの不運な境遇をもたらした父・政宗には、恨みともいうべき思いを抱いていたとしても不思議ではなかった。その父から、監視役のような形で送り込まれた公頼を、快く思うはずがない。次第にその思いが憎しみに転じていったようである。
そこにつけ込んだのが、公頼と敵対する重心の一人・桜田元親で、公頼陥(おとしい)れを目論んで、藩主・秀宗を焚きつけたのである。公頼を亡き者にしようと計って、秀宗に讒訴(ざんそ)。これがきっかけとして巻き起こった騒動であった。
もちろん、秀宗にとっては、この公頼斬殺の報を、父・政宗に報告することもままならず、悶々とする日々が続いたはずである。しばらく黙っていたものの、やはり、バレた。何も言わずにごまかそうとしたことで、政宗が激怒。秀宗を一時、勘当したほどであった。
そればかりか政宗は、幕府に対して宇和島藩の改易(かいえき)を嘆願したと言うから驚く。ただし、これは政宗らしいパフォーマンスで、敢えて自らが大げさに騒ぐことで、周囲から非難の声が上がるのを防ごうとしたとみなすべきだろう。案の定、政宗の嘆願書を受け取ったはずの老中・土井利勝(どいとしかつ)が上奏(じょうそう)しなかったことで、改易を免れることができたのである。
藩内に異変が続出
さて、本題は、ここからである。この一連の騒動、実はこれだけでは終わらなかった。この事件の後、次々と藩内に異変が起きたからである。まず、首謀者の一人ともいうべき 桜田元親が、金剛山で催された秀宗の正室の三回忌法要の際、大風に煽(あお)られて落ちてきた本堂の梁(はり)の下敷きになって圧死。
そればかりか、藩主・秀宗の長男・宗味、次男・宗時、六男・徳松が次々と亡くなっていった上、秀宗自身も発病(中風だったとも)。公頼殺害に関わった人物ゆかりの人々が、次々と不幸に見舞われたのだ。恐れていたことが起きた。つまり、公頼が「祟った!」のである。いや、正確に言えば、当時の人々がそう信じて、恐れおののいたのだ。
ともあれ、これを危惧した秀宗は、公頼の怨霊を鎮めるために神社を創建。山瀬和霊神社と名付けて公頼を祀(まつ)ったという。その効果があったのか? なかったのか? 定かではないが、怨霊を御霊として祭り上げることで、少しは気が晴れたのだろう。その霊は後に「和霊様」と呼ばれ、御霊つまり鎮護の神として人々の平穏を願う祈りの対象となったのである。
例年7月23〜24日に、和霊大祭なる祭りが催されているが、これが、公頼ゆかりの祭りである。その主役とも言うべき神輿のスタート地点が、公頼の屋敷跡というのが、何やら意味ありげだ。今も屋敷跡周辺にその霊が漂っているということなのだろうか……。気になるところである。