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家康の「将来性」を信じ切れなかった石川数正

武将に学ぶ「しくじり」と「教訓」 第15回

■家康の「将来性」を見限る

 

 数正は徳川家の存続と発展のために、汚れ仕事も厭(いと)わず尽力していました。織田家との清州同盟の締結を実現させるなど、主に外交交渉のような表舞台で功績を挙げています。

 

 一方で、家康の伯父である水野信元(みずののぶもと)を誅殺し、信康の排除にも後見人として関わるなど、徳川家内部の事案にも深く関わっていきます。

 

 数正は小牧長久手の戦い後、豊臣政権との停戦を実現しましたが、この停戦は一時的なものでしかなく、再戦は避けられない状況でした。数正は秀吉への従属を支持しますが、小牧長久手で局所的な勝利を得ていた事もあり、酒井忠次(さかいただつぐ)や本多忠勝(ほんだただかつ)たちは反対の立場を取ります。

 

 秀吉は、従属の意志を示さない徳川家に対して征伐の準備を始めます。秀吉包囲網の一角であった佐々成政(さっさなりまさ)や長曾我部元親(ちょうそかべもとちか)を従属させており、すでに徳川家の孤立化に成功していました。

 

 それでも家康を含め、徳川家は従属を決断できませんでした。この状況を見た数正は徳川家の「将来性」に見切りを付けたのか、秀吉の直参となる道を選びます。

 

■数正の判断の成功と失敗

 

 秀吉が進めていた徳川征伐は、1586年に起きた天正(てんしょう)地震により取り止めとなります。家康は数正による情報漏洩を恐れ、豊臣政権に従属する道を選びます。天変地異と数正のに助けられる形で徳川家の命脈を何とか保ちます。

 

 そしてその後、豊臣政権は九州、東北をも支配下に置き、天下統一を果たしました。数正は河内国内で8万石の領地を得て、小田原征伐後には信濃松本10万石を拝領します。これは長く功績のある、黒田家や細川家でも12万石程度であったことからも、高い評価を受けていた事が分かります。

 

 また、徳川家の関東入封時に、同格だった酒井忠次の子家次が3万石、石川家成(いえなり)の子康通が2万石だった事を考えると、数正の判断は間違っていなかったと言えるでしょう。

 

 一見、数正による「将来性」の見立ては正しかったように見えます。しかし、数正の死後、その見立ては覆される事になります。

 

 家康は秀吉亡き豊臣政権から実権を奪う事に成功し、征夷大将軍となり幕府を樹立します。安城譜代でありながら、外様扱いとなっていた石川家は幕府の重臣大久保長安と縁戚関係を結んだ事で、将来は安泰かと思われました。

 

 しかし、長安死後に不正蓄財の罪に大久保家が問われると、それに連座するかたちで、石川家は御家取り潰しとなりました。

 

■「将来性」を図るのは非常に難しい

 

「将来性」は能力で判断されがちですが、実は運が及ぼす影響も大きいのかもしれません。

 

 家康は三方ヶ原(みかたがはら)の戦いでは武田信玄の死で苦境を抜け出し、徳川征伐では天正地震によって救われています。

 

 数正は、長年家康に仕えながらも、その運の強さを最後まで信じきれなかったように見受けられます。現代でも、会社の将来性に見切りをつけて転職したものの、数年後に市場の変化にうまく対応してV字回復し、逆に転職した事が裏目に出る例は多々あります。

 

 もし、数正が徳川家に残っていれば、石川家が譜代大名として重きをなした可能性はあります。しかし、本多正信(ほんだまさのぶ)や土井利勝(どいとしかつ)たちによる権力闘争を考えると、石川家が安泰だったとは言い切れません。

 

 これは「将来性」を見極める事の難しさを知る、良い事例だと思います。

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森岡 健司もりおか けんじ

1972年、大阪府生まれ。中小企業の販路開拓の支援などの仕事を経て、中小企業診断士の資格を取得。現代のビジネスフレームワークを使って、戦国武将を分析する「戦国SWOT®」ブログを2019年からスタート。著書に『SWOT分析による戦国武将の成功と失敗』(ビジネス教育出版社)。

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