“ラッパー”坂間兄弟が家康ゆかりの「平塚」を訪ね、自身のルーツとなる地名を発見!【前編】
坂間兄弟の「KNOW HISTORY, KNOW LIFE」
■坂間兄弟のルーツに関連していた武将とは……?
—家康公がいかに平塚を重要視していたかが分かるエピソードですが、その地図を見ていた二人の動きが急に止まりました。

「くらしと金目川」のコーナーで、図の一点を見つめるコーヘイ氏。
コーヘイ:この流域に書いてある、「根坂間」って……。
D:おっ、俺たち(坂間家)の発祥の地だ! もしも、家康公が治水していなかったら、僕ら坂間の先祖も、ここに住んでいられなかった可能性もありますよね……。そう考えると……ありがとう、家康公!
—思いがけず、自らのルーツを発見した両氏。続いて見学したのは、宿場町である「平塚宿」のジオラマのコーナー。文久2年(1862)刊の『宿内軒別畳数坪数書上帳』をもとに再現したものだとか。本陣を中心に、左右には平塚宿54軒の旅籠(はたご)を精緻に再現し、とても見事。 私達の他にも、見入っている女性の方がいました。

平塚宿のジオラマの精巧さに見入る二人。

ジオラマの説明。
栗山さん:この街道筋と、奥には水田と島状に松林が植えられているのが分かるかと思いますが、その奥の方に中原御殿が建てられていました。さらに御殿の西には金目川(かなめがわ)、北には渋田川(しぶたがわ)が金目川に向かって流れています。
D:ほほう。ということは……。
コーヘイ:つまり、水田などで囲んだ天然の要塞だったってことですか?
栗山さん:その通りです。中原御殿は鷹狩の宿舎として捉えられることが多いですが、軍事的な備えが各所にちりばめられていたことが分かります。この旧東海道から中原御殿に至る一帯は、明治期になると海軍火薬廠(かいぐんかやくしょう)が設置され、関連して道路も整備されていきます。
コーヘイ:それが、現代の平塚の発展にまでつながっていると思うと、家康の影響も大きいのかもしれないですね。

栗山さんの話に聞き入る二人。
—ちなみに、『宿内軒別畳数坪数書上帳』の原本も館内に所蔵されているそうです。中原御殿の詳しい解説は、後編(2月27日配信)でお届けする御殿跡の現地でお聞きするとして、一行は館の2階へ。ここでの目玉はこちら、「国府」の東脇殿を再現した模型です。ちなみに国府とは、律令制に基づいた古代日本にて各地に置かれた地方行政機関のこと。今でいう県庁のような機関で、この国府を中心として、周辺に街が発展していきました。というか、その相模の国府が平塚にあったとは……。

国府の模型について解説する川端さん。

国庁の模型の解説。
川端さん:国府の中心施設である国庁は博物館から見て北東方向、四之宮(しのみや)という地域にあったと推定されています。正殿は見つかってないのですが、東脇殿跡とその周辺からは国府内の様々な施設で使われたであろう「大住」や「国厨」(くにのくりや、厨房施設)と書かれた墨書土器が見つかっています。都市整備のため、東脇殿跡は今では道路になっています。それ以外にも、神奈川県内では作られていない高級食器の「緑釉陶器」や錠前なども見つかっており、平塚に国府があったのは間違いないと考えています。
—博物館には他にも興味深い所蔵品が多く、中原代官・成瀬五左衛門が酢を醸造していた酢瓶や油壷、マリンパークが廃園になった際に寄贈された、絶滅種である史上最大のサメ・メガロドンの顎歯の復元模型、相模川から発見された鎌倉時代の舌長(したなが)という鐙などが展示。さらに、江戸末期から明治初期に建てられた邸宅を館内に移築した「相模の家」では、当時のリアルな古民家を体感することができます。歴史には“遠い目”で当時のことに想いを馳せる楽しさがありますね。

史上最大で絶滅種のサメ・メガロドンの原寸骨格レプリカで二人一緒に。
コーヘイ:この黒いものは何ですか?

謎の黒い物質はまさかの……?
川端さん:これは弥生時代の炭化した「おにぎり」ですね。おそらく日本でも数例しかないのではないでしょうか。
D:弥生時代のおにぎり……よく残ってましたね(笑)。
●次回の後編では、中原御殿跡と平塚八幡宮を訪問。2月27日(月)に配信します。
構成・文:織江賢治
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