戦場の第一線に立ち続けた「徳川十六将」
学び直す「家康」⑭
■無名の武将たちはなぜ徳川十六将になれたのか?

渡城址(愛知県岡崎市渡町)に立つ鳥居氏発祥の地の石碑。鳥居元忠は家康と人質時代を過ごし、初陣にも従う。関ケ原の戦いの前哨戦で伏見城を守って自刃。その時の床材が京都の養源院に伝わっている。
日光東照宮に狩野永納(かのうえいのう)筆と伝えられる『徳川二十将図』が宝物として保存される。家康の家臣団のうち、股肱(ここう)の武将を「二十将」「十六神将」などと呼ぶが、顔触れも選び方によって異なる。「十六将」には、主要な家臣とされながらも名前も実績もあまり知られていない武将もいる。ここでは、四天王と呼ばれた4将以外の有名無名12人を紹介する。
平岩親吉(ひらいわちかよし)は幼名・七之助といい竹千代(家康)とは同年。6歳で人質となって今川家に行く家康に同行した。後に家康の嫡男・信康(のぶやす)の傅役(もりやく)となった。武田勝頼と織田信長滅亡後の天正壬午(てんしょうじんご)の戦い(甲斐・信濃・上野争奪戦)では、武田遺臣の掌握・召し抱えに重要な役割を果たした。
鳥居元忠(とりいもとただ)は、家康のために命を捧げた重臣の1人。慶長5年7月、上杉征伐に赴いた家康に対して石田三成ら西軍が挙兵すると、元忠は、家康から任されていた伏見城に籠城した。元忠の1800に対して西軍は4万。元忠は1週間の抵抗の末に城兵諸共討ち死にした。62歳。
内藤正成(ないとうまさなり)は弓の達人であった。多くの合戦で強弓(ごうきゅう)を以て敵を倒した逸話が残る。天正8年の高天神城(たかてんじんじょう)攻めでは、1矢で武田勢2人を射抜いたともいう。弓だけでなく鑓を取っても勇敢に戦った武功派武将である。
渡辺守綱(わたなべもりつな)は「鑓の半蔵」と異名を取る勇士であったが、関ヶ原合戦の59歳まで足軽頭に過ぎなかった。強くはあったが、個人的な武勇であり将兵を指揮する名将という立場ではなかった。17歳の初陣から57年間を鑓一筋で、常に戦場の第一線に立ち続けた珍しい存在であった。
米津常春(よねきつつねはる)は父祖以来の松平家臣であった。天文18年(1549)、織田方の安祥(あんじょう)城攻撃では、城将・織田信広(のぶひろ)を捕らえている(異説あり)。永禄3年、桶狭間(おけはざま)合戦でも家康の丸根砦(まるねとりで)・大高城攻めで武功を上げた。三河一向一揆でも家康側に立ち鎮圧に務めた。慶長17年、89歳で没。
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