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家康を支えた「ブレーン」とその変遷

学び直す「家康」⑧

■関東移封後の家康を支えた経済官僚たち

 

 何よりも行政官・技術者は、家康の徳川幕府にとって「民政ブレーン」として大きな存在であった。家康が関東移封の後、難しい領国経営に成功したのは民政・経済を支えた経済官僚(テクノクラート)の能力を発揮させたからであった。領国を経営するのに大事なことは、領国の収穫高の正確な数字である。これを測るのが検地であり、家康はこの検地の実務に通じた彦坂元正(ひこさかもとまさ)を起用した。

 

 彦坂は今川氏没後に家康に仕えた実務者であり、一里塚や伝馬(てんま)制度を整備した。また、治水(ちすい)・灌漑(かんがい)事業に精通した伊那忠次(いなただつぐ)、鉱山(金山)開発に長けた武田旧臣の大久保長安(おおくぼながやす/旧姓は大蔵・土屋)も重用した。

 

 忠次は、三河以来の家臣であったが、関東入府に当たり利根川・荒川など暴れ川の異名を取る河川改修を行い、その水利事業によって収穫の安定と土地の有効利用をもたらした。長安は、武田家に猿楽師として仕えた大蔵太夫の次男であったが、能楽ではなく蔵前(くらまえ)衆(金山衆/かなやましゅう/・勘定方・山林方など)として信玄を支えた1人であった。武田家滅亡後に、家康の重臣・大久保忠隣(ただちか)に仕え、大久保姓を得た。

 

 長安は、忠次の下で関東代官として一里塚整備・八王子千人同心の前身整備などを行ったが、特筆されるのは鉱山(金・銀山)経営であった。甲州金山の採掘経験を生かして佐渡・伊豆の金山や石見(いわみ)銀山などの経営に従事して、圧倒的な産出量を捻り出した。後には、その幅広い人脈と才能を武器に幕閣の有力者に成り上がり「天下の総代官」とまで呼ばれる存在になる。だが、死亡した直後、不正蓄財が咎められ一族断絶の憂き目に遭う。

 

 家康が三河の一戦国大名から天下人になるまで、あらゆる面で常に知恵袋を置いたことの表れが、軍事から始まり政治・民政・外交・思想・文化という、最終段階でのブレーンシフトに繋がったのである。

 

監修・文/江宮隆之

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より

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