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家康の「食」と「健康法」

学び直す「家康」⑤

薬の知識に基づき、自ら薬の調合を行った家康

鷹狩り姿の家康
家康が隠居後を過ごした駿府城の本丸跡には、鷹狩りの姿を模した家康の銅像が建てられている。死ぬ直前まで鷹狩りを楽しんだという。

 家康は粗食で長寿を保ちえたが、薬マニアで有名だった。中国の薬学書の『本草綱目(ほんぞうこうもく)』や『和剤局方(わざいきょくほう)』を読むなど、和漢の薬に詳しかった。『本草綱目』は林羅山が手に入れ、家康に献上したものである。

 

 家康は豊富な薬の知識に基づき、自ら薬の調合を行い、八味地黄丸(はちみじおうがん)という漢方薬を処方して日常的に服用していた。家康が調合のときに使った小刀、青磁鉢(せいじばち)、乳棒(にゅうぼう)は、今も残っている。

 

 慶長15年(1610)と同17年、松前藩の松前慶広(よしひろ)はオットセイを家康に贈った。家康はオットセイを精力剤とすべく、自ら調合したといわれている。

 

 家康の薬の知識は浩瀚(こうかん)なもので、当時の医者も驚いたという。家康の学問好きはここでも活かされたのだ。

 

腫れ物に悩まされた家康

 

 天正13年(1585)、家康が44歳のとき、背中にこぶし大の腫れ物ができ、高熱で一睡も出来ない日が続いた。腫物は、顔やうなじにも広がっていた。

 

 家康は小姓に命じて、ハマグリの貝で腫れ物の膿(うみ)を絞らせるという荒療治を行った。しかし、かえって腫物が大きくなってしまい。家康は死を覚悟して重臣を呼び寄せたといわれている。

 

 そのとき家臣の本多重次(ほんだしげつぐ)が家康のもとにやって来て、糟屋長閑(かすやちょうかん)という医師に診察してもらうよう勧めた。長閑は塗り薬を背中に塗り、大きなお灸を背に据え、内服薬の服用を指示すると、たちまち腫物はなくなったという。

 

 69歳のときも同じ腫れ物ができたが、このときは軽症だった。

 

粗食を好んだ理由

 

 家康は粗食を好み、麦飯を日常的に食していた。あるとき、家臣が気を利かせて白飯を用意したところ、怒鳴りつけたという逸話があるくらいだ。

 

 おかずも魚、納豆、野菜の煮物など、健康的なものを好んだ。また、食べ過ぎないように気を付け、常に体調を整えることに留意していた。健康に気を使い、粗食を好んだ家康らしいといえる。

 

 なかでも八丁味噌は、質素倹約を旨とした徳川家康の大好物であったという。大豆には、貴重なタンパク質が含まれており、携行食としても好まれた。家康は八丁味噌を丸めてこんがりと焼き目を付け、その焼き味噌とともに麦飯をかき込んだ。家康の長寿のカギは、粗食だったのだ。

 

三度の飯より鷹狩りが好き?

 

 鷹狩りとは、鷹を飼いならし、山野で野鳥を捕獲する一種の狩猟法である。鷹狩りはかなりの運動量を要したので、体力を付けるのに最適だったという。

 

 家康は鷹狩りを単なる娯楽としてではなく、健康法の一つとして重視していた。早起きして食事がうまく感じる、よく眠れるなどの効能を説いた。人質時代の若き家康を教育した太原雪斎(たいげんせっさい)は「鷹狩り好きの元気な性格で、鷹狩りがしたいと言いだすとなだめるのが大変だった」と語っている。

 

 晩年に駿府に移った家康は、近くの田中(静岡県藤枝市)へ頻繁に鷹狩りに出掛けた。江戸に行く際には、道中で鷹狩りを楽しんだという。今でも平塚などに家康が鷹狩をした場所が伝わっている。

 

監修・文/渡邊大門

(『歴史人』2022年8月号「徳川家康 天下人への決断」より

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