お米と並ぶ「日本人」の主食『パン』はいつから食べられるようになったのか?
幕末~明治の偉人が生んだ制度・組織のはじまり㉑
日本の食卓に欠かせない「パン」。現在では当たり前に食べられているが、明治期に日本で流通し出した食べ物である。どういった経緯で、だれがつくりはじめ、どのように日本人に親しまれるようになったのか?
■米と並ぶ「日本人」の主食『パン』

江川太郎左衛門
砲術家として知られ、韮山に鋳造場や反射炉を築いて、大砲や銃砲の鋳造を行うなど、幕末の日本の海防に尽力。政治力、交渉力、人材育成力にも優れ、日本の近代化に貢献した人物のひとり。
日本におけるパンの歴史は幕末に始まる。保存と携帯面で米飯に勝ることから、戦時の非常食として着目され、伊豆(いず)韮山代官(にらやまだいかん)の江川太郎左衛門(えがわたろうざえもん/1801~1855)に開発命令が下された。
太郎左衛門は高島秋帆(たかしましゅうはん)から西洋式砲術を学んだだけでなく、伊豆韮山に反射炉を築き、管轄地域内で種痘(しゅとう)を奨励、号令の「気を付け、前へならえ、捧げ銃(つつ)」を発案するなど、実に多才。同じく西洋式というだけの理由で指名されたようだが、太郎左衛門は嫌な顔一つ見せることなく、与えられた使命を果たした。

韮山反射炉
幕末に軍備の近代化と江戸防備のため建てられた反射炉。「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産に登録された。
幸か不幸か、太郎左衛門が手掛けた日本で最初の国産パンに出番はなく、市場に出回ることもなく終わった。
これにより、日本におけるパンの歴史は幕府の管轄下ではなく、外国人居留地のあった横浜で始まることとなる。
日本で最初にパン屋を開いたのはアメリカ人のグッドマンだが、ほどなく病気で帰国することとなり、店はイギリス人のロバート・クラークに受け継がれた。文久2年(1862)前後のことである。
一口にパンと言っても、イギリスパンとフランスパン、ドイツパンはそれぞれ大きく異なる。ライ麦含有率の高いドイツパンは米飯・麦飯に慣れた日本人にはハードルが高すぎ、フランスパンも硬さが障害。日本人の口にもっとも合うのはイギリスパンで、クラークが本国から持参したホップと、高タンパクな北米産小麦を原料に作られた型焼きパンは、もっちりとした食感に小麦の香りを残し、パンに不慣れな人びとにも人気だった。耳の部分は硬いとして、捨てられがちだったそうだが。
徳川幕府が存続していれば、幕府を支援していたフランスのパンが主流になる可能性もあったが、その幕府が倒れ、親イギリス姿勢の明治政府が樹立されたからには、パンの世界においても、イギリスの優位は揺るがなくなった。
クラークが受け継いだパン屋は「ヨコハマベーカリー」を名乗り、現在の山下町に店舗があった。明治11年(1878)、この店に一人の日本人の少年が住み込みの見習工として働き始めた。中村町の大地主の息子で、名は打木彦太郎(うちきひこたろう)、当時14歳であった。

現在の山下町
幕末、多くの外国人がやってきて外国人居留地が設けられ早くから異国の文化が流入した場であった。その影響で横浜発祥の日本初というものは多くあり、現在も異国の薫りを漂わせている。
何の経験もない彦太郎にとって、パンの製造技術を習得するのは容易ではなかったが、苦節十年の努力が実を結び、明治21年(1888)、彦太郎は引退を決めたクラークから店を譲渡される。翌年3月には堀を隔てた元町に店舗を移し、日本人初のパン職人としての活動を本格化させた。
クラークが築き上げた信頼感があまりに厚いため、屋号の変更は躊躇われたが、和洋折衷ならば痛手もなかろうと、明治32年には、「ヨコハマベーカリー宇千喜(うちき)商店」と改名。従来の顧客が離れることはなく、居留地の外国人、停泊中の軍艦・一般船舶の乗組員に加え、鎌倉や大磯、東京方面の外国人やホテルからも愛され、上野の精養軒(せいようけん)も得意先となった。
日清戦争に際して陸軍の御用商人となり、日露戦争に際しては軍納の乾パン製造を一手に任されるなど、明治時代を通して、日本のパン業界の先頭を走り続けた。

日清戦争
広域で戦闘が行われた日清戦争では手軽に食べられるパンは重宝されただろう。
現在、ヨコハマベーカリー宇千喜商店は屋号をウチキパン株式会社と改めながら元町に健在。イギリスパンもイングランドと名を改めながら、創業当時の技法と味をしっかりと継承している。