NHK『正月時代劇 いちげき』の主人公はなぜ農民・百姓だったのか?─原作者・永井義男が語る幕末の武士の真相─
真剣勝負と道場剣術
昨日放送された NHK『正月時代劇 いちげき』。宮藤官九郎氏が人気原作を脚色し、注目を浴び、話題となった。主役となったのは武士ではなく百姓。百姓たちが江戸の治安を守るため「百姓武士集団」を結成し活躍していくという物語なのだが、なぜ百姓が主役となったのか、という観点からドラマの原作となった小説『幕末一撃必殺隊』の筆者・永井義男さんに江戸時代後期から幕末にかけて武士の実態をふまえて解説してもらった。
■幕末の武士たちの剣術スキルの実態

東台大戦争図
戊辰戦争の戦いのひとつ・上野戦争の様子を描いた絵。江戸・上野を舞台に幕府への忠誠を誓う彰義隊と新政府軍が激しい戦闘を繰り広げた。(国立国会図書館蔵)
昨日、NHKで放送された正月時代劇『いちげき─この“百姓“たち、あなどれないっ!─』の原作である小説『幕末一撃必殺隊』(本稿執筆・永井義男氏の著)が刊行された時、
「町人や農民が武士に勝てるはずがない」
と、憤然として言う人が少なくなかった。
彼らは、武士は子供のころから武芸の鍛錬をしており、みな剣術に秀でていると信じていることになろう。武士はいざとなれば、さっそうと刀を抜く、と。
だが、武芸の達人が選抜されて武士になるわけではない。武士は世襲の身分である。武士だからといって剣術に秀でているわけではない。
実際には、剣術の稽古など一度もしたことがない武士は珍しくなかった。また、稽古をしている人でも、防具を付けて竹刀で打ち合う道場剣術だった。
江戸時代中期、現代の剣道とほぼ同じ竹刀と防具が実用化されて以来、稽古も試合も、防具を身に付けて竹刀で打ち合うようになったのだ。

【図1】(『孝行娘妹背仇討』関亭伝笑著、文化五年、国会図書館蔵)

【図2】(『薄俤幻日記』為永春水二世著、安政七年、国会図書館蔵)
図1と図2を見ても、剣術道場の稽古・試合の光景は現代の剣道とほぼ同じなのがわかろう。
たとえば、北辰一刀流(ほくしんいっとうりゅう)の創始者である千葉周作(ちばしゅうさく)は江戸時代後期の剣豪として名高いが、おそらくその生涯において、真剣で斬り合ったことは一度もないであろう。あくまで、道場剣術の達人だったのだ。だから、剣豪の千葉周作も真剣勝負をしたら強かったかどうかはわからない。
そもそも、竹刀と真剣では、その操作法が違う。軽い竹刀の場合、手首のスナップを生かして、先端でパシンと相手を打つ。しかし、重い真剣の場合、遠心力と重量でズバッと斬り下げなければならない。
試合にしても、道場剣術では1対1で向き合い、いわば「正々堂々」と試合をする。ところが実戦であれば、後ろから斬りかかろうが、油断している時に斬りつけようが、いわば「なんでもあり」なのだ。
小説やテレビドラマなどで、暗殺を命じられた武士が、道で相手の前に立ちふさがり、
「お命、ちょうだいいたす」
「うむ、ご流儀をうけたまわろうか。拙者、神道無念流」
「拙者、新陰流。いざ」
などという場面があり、じつにかっこいい。しかし、こんな悠長さはフィクションにすぎない。
実戦剣術の例には、幕末の新選組がある。当時すでに、戦場は銃砲の時代になっていたが、新選組が戦ったのは京都の市街や屋内だったため、日本刀が有効だった。
しかも、新選組はたいてい、多数でひとりを襲撃した。背後から、横から、滅多斬り、滅多突きにしたのである。そして、勝利した。まさに実戦だった。

近藤勇
新選組局長として最期まで刀1本で戦った侍として日本中から人気を集める。(「名誉新談 近藤勇」東京都立中央図書館蔵 )
なお、近藤勇(こんどういさみ)も土方歳三(ひじかたとしぞう)も本来の身分は百姓だった。幕府の瓦解直前、幕臣に取り立てられて正式に武士になったが、それまでは浪人の建前で両刀を差していたにすぎない。つまり、農民が武士に勝ったことになろう。
実践剣術のもうひとつの例に、明治10年(1877)の田原坂の戦いがある。わが国の歴史において、戦場で日本刀による斬り合いがおこなわれた最後の場面でもあった。

西南戦争
田原坂の戦いの様子を描いた絵。手前が新政府軍であり、兵たちはみな銃で攻撃している。一方、奥側に陣取る士族たちの多くは刀をもち、侍姿で戦っているのがわかる。(国立国会図書館蔵)
西南戦争を通じてすべて銃器の戦いだったが、政府軍は優勢な火力を有しながらも、起伏の多い田原坂に立てこもる西郷軍を攻めあぐねた。これに乗じて、西郷軍は日本刀をふるって斬り込みを敢行し、大きな成果を上げた。西郷軍の剣術は示現流だったはずである。
政府軍はこれに対抗するため、剣術の心得のある警視庁巡査を招集して抜刀隊を組織し、同様に斬り込みを敢行した。抜刀隊は西郷軍の斬り込み隊と互角に渡り合い、ついに押し返した。
「示現流は最強」と信じている人は多いが、田原坂の戦いで見るかぎり、各種流派連合と示現流が対戦し、流派連合が勝ったともいえよう。
この抜刀隊で勇名をはせたのが、直心影流(じきしんかげりゅう)の隈元実道(くまもとさねみち)である。戦後、隈元は実戦経験にもとづき、著書『武道教範』で、当時の(現代にも通じるが)剣道を痛烈に批判した。
要するに、道場剣道と実戦は違うというもので、竹刀の柄(つか)は日本刀の柄にくらべて長すぎることを指摘している。足元が平坦な道場で、柄の長い竹刀を用いるため、実戦とはかけ離れた「摺り込み打ち」になるのだ、と。
江戸時代の剣豪や剣聖と呼ばれた人の剣術論には「剣禅一如(けんぜんいちにょ)」、「活人剣(かつじんけん)」など、精神論が多い。だが皮肉なことに、彼らはほとんど実戦の経験はなかった。
いっぽう、明治期の隈元実道の方が殺伐な実戦経験があった。そして、抽象的な精神論を述べていないのが興味深い。