土御門・順徳上皇の運命と、義時の死因の謎
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑰
倒幕に加担した順徳は佐渡へ。自ら希望した罪なき土御門
順徳上皇の流罪地とされたのは佐渡島で、7月20日に配流が執行されている。付き従ったのは、花山院少将の一条能氏と、左兵衛佐の藤原範経、上北面の源康光らで、女房2人も加わっている。
ただし、能氏は途中で病を得て帰京、範経も途上重病となったため、寺泊に留まったようである。この時、順徳を見送った国母の修明門院・藤原重子や中宮・藤原立子、一品宮、仲恭前天皇らの嘆きは書き尽くすことができないほどであったとか。
その後、雅成親王が7月24日に但馬への配流が決定。翌25日、頼仁親王の備前への配流も決められている。
一方、異母兄の土御門上皇は、承久の乱に何ら関与していないことが明白であったため、その処遇がなかなか決まらないままであった。しかし、父が配流となったにもかかわらず、自身が京に居残っているのは忍びないとして、自ら土佐国への配流を望んだ。その申し出に応じて、閏10月10日、土御門が流罪先へと向かうべく、邸を出たのである。
源定通(みなもとのさだみち)が土御門を乗せる牛車を寄せるや、君臣が咽(むせ)び泣いたという。付き従ったのは、少将の源雅具と侍従の源俊平、女房4人であった。
土御門上皇は温厚な性格もあって徳化が全国に及び、慈愛の心が国の果てまで充満していたといわれる。配流が遅れたのも、そうした民意に影響されていたからでもあった。ただし、後には土佐国から阿波国へ移された。少しでも都に近いところとの配慮によるものであった。
こうして後鳥羽上皇の弁明も許さず、三院ばかりか親王らも厳しく処罰したことは、鎌倉幕府を牽引する北条義時の強い意志の表れであった。武家が支配する統治体制を構築するためにも、激しい処罰は避けられないものとの思いが強かったのだ。
その後の皇位継承にも、幕府が介入。六波羅探題の設置によって朝廷を監視し、幕府の支配権が、畿内、西国にも及ぶようになったことも意義深いものであった。
また西国守護の多くが更迭(こうてつ)されて発生した官軍没収領が恩賞として東国の御家人たちに配られたことも幕府が確固たる信頼を得る大きな材料となったことはいうまでもない。さらに北条氏が主導する執権体制も確立するなど義時にとって思いもよらないほどの成果を得ることもできた。
承久の乱がもたらしたもの、それは詰まる所、北条氏を柱とする武家政権の確立に道筋をつけたものだったのである。
義時の死因と伊賀の方の謎
朝廷と幕府の力関係を逆転させることに繋がった承久の乱。その中心人物が、北条義時であったことは言うまでもない。乱後の体制を整えた義時は、その3年後の1224年に、病(脚気だったとも)を得て亡くなっている。
ただし、その死があまりにも突然だったことから、様々な憶測が飛び交った。その最たるものが、継室となった伊賀の方による毒殺説である。藤原定家『明月記』(めいげつき)によれば、承久の乱の首謀者のひとりである延暦寺の僧 ・尊長(そんちょう)が、六波羅探題で厳しい尋問に耐えかね、「義時に妻が飲ませた薬で俺も殺せ!」と、あたかも伊賀の方が義時を毒殺したかのように吐き捨てたという。
義時の死後、伊賀の方が兄の伊賀光宗と共謀して、我が子・政村を執権の地位に昇らせようと目論んだことから鑑みれば、伊賀の方が夫・義時を殺害したということも、十分あり得ることである。
ただし、伊賀の方が義時を殺したというのは、北条政子が伊賀の方を陥れるために仕組んだものとの説があることも付け加えておきたい。政子が伊賀氏の台頭を恐れたからというが、果たして? この辺りの真相は、闇の中である。
監修・文/藤井勝彦
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