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土御門・順徳上皇の運命と、義時の死因の謎

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑰

仲恭天皇が譲位させられ守貞親王の3男・茂仁親王が即位

順徳上皇が晩年を過ごした佐渡の黒木御所跡。上皇は佐渡まで約1ヵ月かけて到着したといわれる。漁師以外は立ち寄らないといわれたほどの寂しい島で、約20年の時を過ごし、46歳で没した。

 後鳥羽上皇の兄・守貞親王が世を治めることになったのは、7月8日のことである。後鳥羽上皇を廃し、その兄を上皇に立てて「治天の君」にしたという。

 

 もともと守貞親王は、自身の皇位継承が見込まれないとして出家し、法名・行助(ぎょうじょ)を名乗っていた。しかし、承久の乱の終焉後には状況が一変。皇位継承すべきと思われる人物が、自身の3男・茂仁親王だけしか見当たらなくなってしまったことで、その父である行助が法皇として院政を敷くことになったのである。

 

 出家した者に太上天皇号を奉ることは前例のないことであったが、後鳥羽上皇系の皇族が一掃されたため、他に適当な候補者が見当たらなかったからである。治天となった後は、公武の融和に努めたものの、わずか2年で薨去。後高倉院(ごたかくらのいん)の院号を贈られている。

 

 また、翌9日には、順徳の子・仲恭天皇が高陽院の皇居において譲位。出家していなかった守貞親王の第3皇子・茂仁(ひたひと)親王が、天皇(後堀河天皇)に立てられた。

 

 茂仁親王の外祖父・持明院基家(じみょういんもといえ)が、源頼朝の妹(姉の可能性も)・坊門姫の婿である一条能保(いちじょうよしやす)の叔父とあって、幕府側にとっても望ましい皇位継承者であった。

 

 さらに2日後の7月11日の事績として興味深いのが、 佐々木広綱の子・勢多伽丸(せたかまる)にまつわる動向だろう。父である佐々木広綱が、鎌倉幕府将軍から恩恵を受けながらも背信行為を働いたことで、その子・勢多伽丸も、父とともに処刑される運命であった。すでに出家して、後鳥羽上皇の次男・道助親王に育てられていたところを呼び出されたのである。

 

 この処遇を巡って、道助親王はもとより、勢多伽丸の母までもが必死に助命嘆願を重ねた。これに心を動かされた北条泰時が「10余歳の孤児では、悪行もできまい。身柄を預け置かれたい」と、広綱はともあれ、勢多伽丸の罪だけは許そうとしたものの、勢多伽丸の叔父、佐々木信綱が不満を訴えて反対。泰時は断腸の思いで処刑を指示せざるを得なかったのである。

 

 一説によると、信綱が勢多伽丸の身柄を強引に奪い取った挙句、自らの手で梟首(きょうしゅ)に処したとも。斬罪に処しただけでなく、その首が公衆の前に晒(さら)されるという悲惨さであった。信綱は、もともと幕府に仕えていたにもかかわらず西面武士として官軍に属した兄・広綱を憎むあまり、その子さえ許すことができなかったのである。

 

後鳥羽上皇の直系子孫は天皇候補から除外される

 

 北条泰時・時房率いる鎌倉方の東海・東山両道軍が入京を果たしたのは615日のこと。この日早々と、土御門(つちみかど)と順徳の両院及び、頼仁・雅成の両親王が、賀茂、貴船など京の近郊に避難している。

 

 土御門は後鳥羽上皇の第1皇子、順徳は第3皇子である。後鳥羽天皇の譲位によって、土御門がわずか3歳にして皇位を継いだものの、温和な性格が逆に危惧(きぐ)されていた。幕府との折衝に弱腰であってはならじとの不安に駆られた、父の意向に従って退位させられていた。その後を受けて異母弟であった順徳が即位したのは、承久の乱の始まる10年以上も前のことであった。

 

 ただし、そのあとを受け継いだ順徳は、先代とは異なり、気性も激しく鎌倉幕府打倒(倒幕の意思はなく、あくまでも北条義時討伐だけが目的だったとの説も)に意欲的で、父の倒幕計画にも加担していた。そのため順徳の配流は、避けがたいものであった。

 

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