後鳥羽上皇の翻意に三浦胤義らが憤慨「承久の乱」朝廷方最後の奮戦
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑮
上皇は秀康や胤義を「徒党」扱いし「追討せしむべし」 と命じる
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三浦義村
承久の乱後に評定衆・宿老として活躍。義村の子の泰村は烏帽子親である泰時の氏の一門衆となる。『鎌倉三代記』/都立中央図書館蔵
宇治や瀬田で敗れた京方の武将たちが逃げ帰っていく中、京方の大将軍・藤原秀康と三浦胤義らが、6月15日の寅の刻(午前4時頃)、一条大路の北にあった御所・四辻殿に参上してきた。「官軍が敗北したため、まもなく(東軍が)京に入ろうとしています。たとえどのようなことがあっても、決して死を免れることはできないでしょう」と、口を揃えて後鳥羽上皇に奏聞(そうもん)したのである。
そのわずか数時間後の辰の刻(午前8時頃)には、早くも大夫史(たいふし)小槻国宗宿禰(おづきのくにむねくすね)が勅使として、北条泰時の陣に遣わされている。舞台は、賀茂川沿いの樋口河原(六条河原だったとの説も)であった。
この勅使に対して、泰時が「院宣を拝見しましょう」と言ったものの、それを読むことができなかったからか、院宣を読むことのできる者を勇者5千騎から探し求めている。岡村次郎兵衛尉を通して尋ねたところ、勅使河原小三郎則直が「武蔵国の藤田三郎能国が文章に通じています」と言う。
早速藤田を召し出して、ようやく院宣を読むことができたとか。東国武士たちの識字率の低さが推し量られる逸話である。
その内容は、「この度の合戦は、自身が起こしたものではなく、謀臣が行ったものである」というものであった。つまり、自身には非はなく、責任は全て臣下にあると、罪をなすりつけたのだ。
そればかりか、秀康や胤義らを徒党呼ばわりした挙句、「追討せしむべし」 との命まで下した。もちろん、彼らが憤慨したことはいうまでもない。その上で「帝都での狼藉(ろうぜき)の禁止」を申し渡したというから、この頃はまだ、上皇としての威厳をかろうじて保っていたようである。ただし、三浦義村が、関東方の命として「宮中を守護」すると伝えて、源頼重らを派遣。表面的な威厳とは裏腹に、実質的には上皇側の降伏宣言を意味するものであった。
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