「承久の乱」の終幕と後鳥羽上皇らの処遇
「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑯
四辻殿にいた後鳥羽上皇を鳥羽殿に移送し出家、授戒
後鳥羽上皇が北条義時追討の兵をあげたものの、圧倒的な兵力差をもって逆に京へと攻め入られて敗北。降伏の院宣を認めたのは、6月15日のことであった。6月23日には、北条義時と大江広元が王家、公家の処罰を決定。後鳥羽上皇の隠岐への配流もこの時に定められたが、移送が始まったのは、その半月後の7月6日のことであった。
一旦、四辻殿にいた後鳥羽上皇を鳥羽殿に移送。その際、西園寺実氏(さいおんじさねうじ)や藤原信成(のぶなり)、藤原能茂(よししげ)ら3人が牛車の後ろから騎馬で付き従っている。洛中の人々が主を失って嘆き悲しんだという。
治天の君として長きにわたって君臨、時には暴君とまで揶揄されるほどの専制君主も、もはや勝者に首を垂れる敗者の姿でしかなかった。その2日後には、仁和寺の第8代門跡を継いでいた自身の子・御室道助(おむろどうじょ/入道親王)を戒師(かいし)として出家、授戒。髻(もとどり)は母・七条院殖子(しょくし)のもとに送られた。
これを見た母は、声を惜しまず涙を流したという。ただし、御室道助自身が処罰を逃れたのは、不幸中の幸いというべきであった。また、この日までに、似絵の名人・藤原信実に御影を描かせたというが、果たして、どのような面持ちで描かせたのだろうか。
それでも、隠岐へと向かう日は、刻々と近づいてくる。7月10日には、北条泰時の子・時氏が鳥羽殿に参上。弓の端で御簾を掻き上げて、「君は流罪になりました。早くお出になさるように」と、荒々しく責め立てたという。
そして、いよいよ出立の日がやってきた。7月13日のことであった。この日、伊東祐時が身柄を受け取り、上皇を罪人の護送用に用いる「四方(よも)の逆輿(さかごし)」に乗せて、鳥羽から隠岐へ向かった。輿を進行方向と逆向きにするという罪人移送時のしきたりに従ったものであった。
この時に付き添ったのは、藤原能茂、坊門信清の娘で頼仁親王の母・西ノ御方(坊門局)ら女房2〜3人と、旅先での急死に備えて付き従った僧侶が一人。その一団を甲冑の武士が前後を囲んで進んでいった。播磨国、美作(みまさか)国、伯耆(ほうき)国を経て、14日後の7月27日、出雲(いずも)国大浜湊(浦)に到着。
付き従ってきた武士たちの多くが、ここから帰京している。なお、当地において詠んだ和歌を、母・七条院殖子と寵妃(ちょうひ)の修明門に送った。それが、「たらちねの消之やらでまつ露の身を 風よりさきにいかでとはまし」(露のような儚いお命が風に散らされる前に、どうにかして母上にお会いしたいものだ)「しるらめや憂きめをみをの浦千鳥 島々しほる袖のけしきを」(知っているだろうか、悲しみの浦の小鳥たち、島々で袖を絞って暮らす景色を)というものであった。
隠岐へと流されゆく後鳥羽上皇 勝者に首を垂れる敗者の姿
ここでしばし風待ちをした後の8月5日、ついに見尾(美保/みほ)崎から隠岐島へ出航。たどり着いたのは、隠岐国阿摩郡苅田郷(あまごおりかりたごう)であった。「雲海が沈々として南北も知れないので、手紙や使者の便を得ず」と記録されたほどだから、相当辺鄙なところだったのだろう。「京を離れる悲しみと、都を出る恨みでますます思い悩まれた」というから悲しみばかりか、恨み辛みも増すばかり。
それから18年後の延応元年(1239)2月22日、配所にて崩御。享年60であった。
ちなみに、後鳥羽上皇といえば、中世屈指の歌人としても知られている。『新古今和歌集』の撰者の一人で、盛んに歌会などを催すなど、宮廷文化の擁護者としての側面があったことが評価されている。無謀な戦いに臨んで自ら墓穴を掘った御方であったものの、文化人としての評価は不動ともいえるものであった。

後鳥羽上皇火葬塚
隠岐・中ノ島に残る上皇の骨の大部分が納骨された火葬塚。明治時代になってようやく水瀬神宮に合祀された。
監修・文/藤井勝彦
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