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泰時・時房が死闘を繰り広げた「承久の乱」瀬田・宇治川の戦い

「承久の乱」と鎌倉幕府の「その後」⑭

芝田兼能と佐々木信綱 宇治川渡河で先陣争い

 

 北条時房が野路から瀬田へ向かったのに対し、甥の泰時は栗子山(くりこやま/栗駒山)あるいは岩橋へ向かって陣を構えた。酉(とり)の刻(午後5〜7時頃)のことであった。この日はここで英気を養って、翌朝、宇治橋に向かって進撃するつもりであった。

 

 ところが、夜半になって突如、泰時のもとに危惧すべき情報がもたらされた。足利宗家3代当主・足利義氏(あしかがよしうじ)や三浦義村の次男・泰村らが、功を焦って泰時に伝えることなく、宇治橋辺りで勝手に戦い始めたという。対する官軍は、2万余騎もの大軍である。雨のように矢を射られて、多くの兵が負傷。撤退して、平等院に立て籠もっていると伝えてきたのだ。

 

 この報告に驚いた泰時は、取り急ぎ激しい雨を凌いで宇治へと向かった。泰時が宇治橋へと駆けつけてみると、橋桁の上では奈良法師の土護覚心や円音(えんおん)ふたが大長刀を振るって、橋を渡ろうとする鎌倉方の武士たちを立ちふさいでいるところであった。この様相を危惧した泰時は、即座に戦いを止めさせ、平等院に退却するよう命じている。

 

 一夜明けた14日は、雨も収まって久しぶりの晴れ間が広がっていた。前日の戦いによって橋上での戦いを不利と見た泰時は、橋を渡ることを諦め、浅瀬を探し出して渡河することにした。まず芝田兼能(しばたかねよし)を呼んで、浅瀬を調べるよう指示。兼能が浅瀬を見つけ出すや、泰時は早速、兼義ばかりか、春日貞幸(かすがさだゆき)、佐々木信綱(ささきのぶつな)、中山重継(なかやましげつぐ)、安東忠家(あんどうただいえ)らに渡河を命じている。

 

 最初に飛び出したのは、官軍方に与した佐々木広綱の弟・信綱であった。義時から賜った御局という名の駿馬にまたがって駆け出して中洲の手前辺りにたどり着くや、「我こそは佐々木四郎左衛門尉源信綱、今日の宇治川の先陣なり」と、声も高らかに名乗りをあげた。

 

 信綱に続いて兼義も負けじと、「芝田橘六兼能、今日の宇治川の先陣なり」と声を張り上げている。これを合図とばかりに、鎌倉方の武士たちが、我先にと川に向かって飛び出していった。

 

溺死者が続出するも競うように渡河を続行

 

 しかし、そこをすかさず京方が矢を一斉に放ったからたまらない。しかも、昨日からの大雨で濁流となった川の流れも速かった。10人中2〜3人が、流れに飲み込まれて溺死するという悲惨さであった。苦戦を強いられて敗戦まで脳裏をよぎった泰時は、長男・時氏を招き寄せ、「我が軍は敗北を余儀無くされている。今となっては、将軍が死ぬ時である」といったばかりか、「速やかに河を渡って、命を捨てよ」とまで命じたのである。

 

 その後泰時も駒を進めて川を渡ろうとしたが、この時ばかりは、春日貞幸(かすがさだゆき)が思いとどまらせている。「甲冑(かっちゅう)を着ている者は、多くが水に沈んでいます」と声高に叫んで泰時に鎧を脱がせている隙に、泰時の馬を隠してしまったのだ。

 

 この貞幸の機転が功を奏して、泰時の無謀な死を思いとどまらせることができたのであった。

 

 先に渡河していった佐々木信綱が、京方が張り巡らせた馬防のための太綱を太刀で切り捨てて敵陣に切り込むや、兼義も甲冑を脱ぎ捨てて泳ぎ渡った。さらに時氏が旗を掲げて矢を放つなど、鎌倉方の決死の戦いぶりが目立った。こうして、戦況は次第に幕府方有利へと傾いていったのである。

 

 泰時や足利義氏らが、民家を壊して作らせた筏(いかだ)に乗って川を渡った頃には、官軍は防戦の術もなく敗走。宇治、瀬田の両所で勝利した幕府方は、すぐ間近に位置する京の都に向かって進軍していったのである。

現在の宇治橋。「橋合戦」と呼ばれる以仁王の挙兵の際も頼政の軍は宇治橋の橋板を落として待ち構え、川を挟んでの矢戦となった。淀川に架かっていた山崎橋、勢田橋とともに3大古橋と呼ばれる。撮影:藤井勝彦

監修・文/藤井勝彦

(『歴史人』202212月号「『承久の乱』と『その後』の鎌倉幕府」より)

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