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江戸時代は医者にかかるのは一生に一度⁉ 診療は大金が必要

江戸時代における病の直し方【第6回】


ちょっとしたことでもかかるほど医者が身近な存在になっている現在。しかし、江戸時代は医者にかかるには大金が必要で、場合にはよっては一生に一度かかるだけという人も多くいたのである。


 

浮世絵に描かれた医者の姿。江戸城内で将軍などの診療にあたる御殿医などは出世すると僧の位を貰うために、剃髪しなければならなかった。儒学者から医者になった者は、この浮世絵のように髪を束ねた束髪という儒者と同じ髪型にしていることが多かった。(『野浦一学・一学倅主税之助・児白菊丸後ニ佐々木ノ妾菊之方・医者奈須玄伯』国立国会図書館蔵)

 江戸時代の病院はどこにあったのだろうか。赤ひげで有名な小石川養生所(こいしかわようじょうしょ/東京都文京区)は、施薬院という恵まれない人のための医療施設だから、病院の一種といえるだろう。では、裕福な人たちが通う病院はどんなものだったのだろうか。実は、江戸時代、現在の病院と呼ばれる施設は、文久元年(1861)長崎に開設された長崎療養所までなかった。病気を治すために入院するという考え方がなかったからだ。

 

 病気になったら自宅で良くなるまで寝ているのが、基本的な直し方である。しかし、ただ寝ているのではなく、いろいろな方法を試みる。祈禱師(きとうし)に祈禱してもらっても良くならず、按摩(あんま)や鍼(はり)でも好転せず、病気が治る食べ物を食べ、体に良いとされるものを飲んでもよくならず、売薬の勝って試してみても効かない、という場合には医者に診てもらうことになる。つまり最終手段として医者に診てもらうので、一生に一度、最期を看取ってもらうために診てもらうこともあったという。

 

 病院がないので、医者に診てもらうためには家に来てもらわなくてはならない。もっとも現実問題としていろいろと方法を試した上で医者にお願いをするのだから、患者は自分から医者のところに行くだけの体力もなかったのかも知れない。

 

 さて、医者だが、診療科目は本道と呼ばれる現在の内科が主で、そのほかは外道と呼ばれ、この中に現在の外科や眼科などか含まれていた。眼科が多いのは、江戸では埃が多く、これが原因で成人してから失明する人が多かったというからだという。

 

 本道の医者は、脈をとったり、顔色などを見たりして、患者の症状を判断して薬を処方する。医者将軍やその家族を診る医者のことを御匙医(おさじい)などと呼ぶことがあるが、これは、匙(さじ)を使って薬を処方するところから来ている。当時、医者には診療費ではなく、診てもらったお礼をお支払いするという考えであったので、薬代のことを薬礼と呼ぶこともあった。

 

 また、現在の日本人が医者にかかって何か薬が欲しいというのは、医者に診てもらったら必ず投薬してもらう慣習があったからだという説がある。ところで、当時の薬は現在でいうところの漢方薬だ。漢方薬の原料は輸入品が多く、中でも人気が高かったのが薬用人参だ。だが、1斤(600g)で63両もしたという記録が残されているほど高価なものであった。

 

 こうした薬代を支払わなければならないのだから、たとえ庶民を診る町医者でもその代金は高くつく。1人で、もしくは薬の入った箱を弟子に持たせてやって来る徒歩医者は足代を請求されることはないが、駕籠(かご)に乗ってやってくる乗物医者(のりものいしゃ)となるとその乗物の代金も患者の方で負担しなければならない。近くに良い医者がいればよいが、遠くから呼ぶとなるとそれだけ駕籠代が高額となり、とんでもない金額を支払わなくてはならないことになる。だから、医者にかかりたくてもかかれない人が世の中には多くいたのだ。

 

 この現実を知っていた町医者の小川笙船(おがわしょうせん)は、目安箱に施薬院の設置を求める文書を投函。これが採用されて冒頭のように小石川にあった御薬園の中に小石川養生所が開かれて、お金がなくても医者に診てもらうことができるようになったのである。

 

 

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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