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医療ではなく「まじない」で抑えた江戸時代の感染病対策!?

江戸時代における病の直し方【第3回】


病は病鬼(びょうき)や疫神(えきじん)などがやって来て起こすと考えられていた。そこでこれらがやってこないように、すぐに去るように様々なまじないが行われた。


「麻疹流行年數」松齋芳宗 画 文久2年
麻疹は江戸時代には定期的に流行しているが、この文久2年(1862)の時には、これと同様の様々なまじないを書いた刷り物が作られた。(国立国会図書館蔵)

 江戸時代の人たちにとって流行病は、交通事故にあうようなものであった。いつどこで、病に出くわすかわからないし、用心していても自分では防ぎようがない部分が大きいからだ。

 

 それでもいつからか、疫病は外からやって来ると人々は気が付いていた。そのため、まじないとして人にとりついて病を引き起こさせるとされる病鬼が、家の中に入って来ないように護符(ごふ)を戸口に張る。護符ではなく、加藤清正(かとうきよまさ)などの武者絵を貼ることをあったという。家の中にはすでにこんなに強いやつがいるとなれば、病鬼も恐れをなして入ってこないだろうと考えていたようだ。

 

 家の戸口といえば、今でも京都の人たちは、祇園祭(ぎおんまつり)で販売されている笹で作られた粽(ちまき)を買い、玄関の軒下に飾る。これには以下のような意味がある。

 

 ある時、祇園祭の行われる八坂(やさか)神社の祭神・牛頭天王(ごずてんのう)が旅に出た。牛頭天王という名の通り、頭に牛のような角があるため、富豪の巨端将来(こたんしょうらい)の家に宿を求めたが断られてしまう。巨端将来の兄・蘇民将来(そみしょうらい)は貧しかったが、牛頭天王を粥などでもてなしてくれた。牛頭天王は「お礼にお前の子孫を末代まで守ってやろう。その目印として茅の輪を腰につけておくように」と言い残して去っていった。

 

 その後、疫病が流行ったが、いわれたとおりにしていた蘇民将来の子孫たちは病にかかることなく生き残ったという。蘇民将来の子孫たちが身につけていた茅の輪は茅を束にして巻いたもので「茅巻(ちまき)」と呼ばれた。そこで音が同じ「粽」のお守りが、疫病除けとして作られるようになった。祇園祭りで売っている粽には「蘇民将来の子孫ですから疫病から守ってください」という意味を込めて蘇民将来子孫也という護符がつけられている。

 

 戸口の護符を突破して家の中に侵入した疫病は、古くから川や、海に流してしまうが行われていた。たとえば、疫病を封じ込めて川に流したと思われる人の顔を描いた壺が見つかっている。これは江戸時代にも行われており、古河藩(現茨城県古河市)では享保18年(17337月に疫病が流行った時に、わらで疫神を作り、鉦や太鼓を鳴らして海に流した。さらに、幕末になってコレラやインフルエンザなど日本にない病が流行ると、こうした病は海の向こうかやって来た疫病神がまき散らしたと考え、米俵の端にある丸い蓋(桟俵)に乗せて海の向こうに帰ってもらった。

 

 水に流しても再び、海の向こうから病がやってくることを危惧したのだろう。安政元年(1854)に大地震が多発、安政2年にもやはり地震が起こったため、3月にはこのままでいくと悪病が流行るか、大飢饉など恐ろしいことがやって来るとうわさが広まり、それを避けるために年を祭り替える、つまりもう一度正月をやり直せばいいという評判がたって、33日に餅をつき、門松を立て、正月をもう一度やり直したという。

 

 子どもの頃に擦り傷などをつくると「痛いの痛いのとんでいけ」などのおまじないをしてもらったという記憶をお持ちの方も多いことだろう。あれと同じように疫病をもたらすという疫神を、どこか遠くへ行っていて欲しいと人々は様々な方法を考えたようだ。

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加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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