【江戸の性語辞典】根拠もなく信じられた「相模女・相模下女」
江戸時代の性語㉖
現代とは異なり、江戸時代には根拠のない「噂」程度の俗説が、まるで定説のように扱われることがあった。相模国の女性を指した俗語について、今回は解説する。
■相模女(さがみおんな)・相模下女(さがみげじょ)
相模は、現在の神奈川県にほぼ相当する。
相模下女は、相模から江戸に出てきて、商家などで下女奉公をしている女。
江戸では、相模女と相模下女は、好色で淫乱とされていた。性的に奔放な女の代名詞でもあった。
もちろん、根拠のない、失礼極まりない地域評である。
俗説にすぎないのだが、いつしか定説のようになっていて、男たちは、
「あの女、相模だとよ」
などと聞くや、みなニヤリとした。
図は、東海道の戸塚宿(横浜市戸塚区)の飯盛女(宿場女郎)が描かれている。まさに本場の相模女と言おうか。

【図】相模女(『旅枕五十三次』恋川笑山、嘉永年間、国際日本文化研究センター蔵)
【用例】
①戯作『粋町甲閨』(山手馬鹿人著、安永八年頃)
内藤新宿の女郎屋で、客の男と遊女が話す。遊女は相模の出身だった。
男「相模女に播磨鍋とって、尻が早えにたとえてあるわ」
女「そりゃあ、はや、ほかの女は知らねえが、なんぼ相模でも、そんなじゃごぜんせん」
播磨鍋は、播磨(兵庫県の南西部)産の銅製の鍋のこと。早く熱せられたため、女の尻が軽いたとえとなった。
相模女と同様、播磨女も尻が軽いとされていた。
②春本『会本色形容』(喜多川歌麿、寛政十二年)
仇介という番頭は、まったく女にもてなかった。
悲しいかな、前世の報いにや、相模女は言うに及ばず、房州鍋の尻軽下女にさえも、口説き寄れば、はねのけられ、
相模下女はおろか、房州下女にも相手にされなかった、と。
逆から言えば、相模女は声さえかければすぐに応じるはず。その相模女からも相手にされないのだから、よほどもてないのだ――となる。
房州(千葉県南部)の女も、尻軽で淫乱と考えられていたようだ。
③春本『千摩伊十紙』(歌川国盛二代、嘉永期)
相模下女の淫乱(させずき)陰門(ぼぼ)
淫乱に「させずき」、陰門に「ぼぼ」という振り仮名があるのがおかしい。
それにしても、相模下女は淫乱と決めつけている。
④春本『旅枕五十三次』(恋川笑山、嘉永年間)
東海道の宿場、小田原宿(神奈川県小田原市)の性風俗について述べた個所である。
この辺、すべて相模なれば、国柄とて当所の女、みな好色淫乱にして、三、四番にてはなかなか飽き足らず、魔羅は萎(な)えても合点せず、口を吸い、へのこをしゃぶりするゆえ、開(ぼぼ)もなめてやらねばならず……
「へのこ」は陰茎、「開」は女性器のこと。
相模の女は、三発や四発では満足しない。さらに求めて、キスをし、フェラチオをする。そのため、男としてもクンニリングスをせざるを得ない、と。
もちろん、春本の誇張とふざけである。
しかし、男たちはニヤニヤしながらも、
「相模の女が好き者なのは本当なんだな」
と、なかば信じたであろう。
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歴史人 大人の歴史学び直しシリーズvol.4
永井義男著 「江戸の遊郭」
現代でも地名として残る吉原を中心に、江戸時代の性風俗を紹介。町のラブホテルとして機能した「出合茶屋」や、非合法の風俗として人気を集めた「岡場所」などを現代に換算した料金相場とともに解説する。