江戸時代の感染予防は源氏最大の英雄や中国の皇帝を救った神頼み⁉
江戸時代における病の直し方【第2回】
疱瘡(ほうそう)こと天然痘(てんねんとう)は、江戸時代の子どもは誰でも一度は罹患する病気だった。しかし、当時は決定的な治療法がなく、なんとか病気から逃れるため赤絵を買い求めたという。

俗に赤絵と呼ばれる絵のひとつ。上段中央に描かれているのが鐘馗。坂田公時こと金太郎も描かれているので、鐘馗だけでは十分ではないと考えたのだろうか。(『赤絵 あづまの花 江戸繪部類』国会図書館蔵)
文豪・夏目漱石(なつめそうせき)の写真はなぜ同じ向きばかりだったのだろうか。実は、漱石は3歳の時に罹患(りかん)した疱瘡の痕が顔に残り、それが目立たたない角度で撮影した写真を選んでいたからだといわれる。
疱瘡は天然痘ともいい、古くから人々を苦しめていた感染症である。日本へは古代に朝鮮半島から渡って来たという。高熱が3日ほど続いた後、水疱(すいほう)が顔から全身に広まる。水疱というと、水疱瘡(みずぼうそう)を連想するが、疱瘡の発疹は水疱瘡ものよりも大きい。顔や手、足などに多いのだが、手のひらや足の裏など、水疱瘡では発疹しないところにも出るという特徴がある。発疹が水疱となり、それがしばらくすると少し濁った色の膿疱(のうほう)に変化し、乾燥すると黒いかさぶたとなる。かさぶたが落ちたところは、皮膚の色が薄くなり、かさぶたがすべてなくなるまでは2~3週間かかる。かさぶたがある間は感染の可能性があり、隔離しなければならない。皮膚の色がもとに戻るには数週間かかるという。
致死率が高く、命が助かったとしても、戦国武将・伊達政宗(だてまさむね)のように片目を失ってしまうことや、夏目漱石のように水泡の痕が残ってしまうことも少なくなかった。
最初のころは30年ほどの周期で流行していたが、やがて、日本固有の風土病のようになった。江戸時代には毎年のように流行し、子どもが罹患するはやり病となっていた。しかし、一度かかれば二度とかからない。そのため、子どもの病気になっていったのである。地方のよっては、疱瘡にかかって亡くなる子どもがあまりにも多いので、疱瘡を無事に乗り切った時に初めて子どもに名前をつけることが慣習になっていたという。
疱瘡にかかると発疹(ほっしん)が出て全身が赤くなることから疱瘡を起こす疱瘡神(ほうそうがみ)は赤を好むと考えられていた。そこで、疱瘡にかかった子どもの部屋に赤い幔幕(まんまく)を張り、室内に赤い着物を飾る。罹患した子どもだけでなく、看護人もすべて赤い服を身に着け、赤い達磨や赤いみみずくの玩具を子どもの寝床のそばに置いた。こうすることで疱瘡神の興味を子どもからそらそうと考えたのだ。もっとも幕末になるとそれほど厳格には守られていなかったらしい。
また、鎮西八郎(ちんぜいはちろう)こと源為朝(みなもとのためとも)や鐘馗(しょうき)を描いた疱瘡除けの絵も盛んに作られた。赤色で刷られたことから赤絵とも呼ばれている。これを買って部屋に飾るのだ。
源為朝は鎌倉幕府を開いた源頼朝(よりとも)や源義経(よしつね)の叔父にあたる人物。偉丈夫で弓の名手だったという。しかし、保元の乱では、敗れた崇徳(すとく)院側についていたため、伊豆大島に流された。江戸時代、伊豆大島では、この伝説の豪勇がいたから疱瘡神が彼を恐れて疱瘡が流行らないと信じられていた。また、唐の皇帝・玄宗(げんそう)が熱病にかかったときに落第書生鐘馗と名乗る大鬼が小鬼を飲み込む夢を見た後、病が治ったという故事から、江戸時代には鐘馗が疫鬼を退け、魔を取り除く神として人気があった。
海外から天然痘の感染予防方法である種痘が伝わってくるまで、いかに疱瘡から逃れるかを考え、また、罹患した場合には、早く直るよう、軽くて済むように様々なことを考えて実行していたのである。