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江戸時代の藩が独自発行した貨幣「藩札」とは?

【江戸時代の貨幣制度 第8回】不信感を抱かれた藩札の実体


幕府発行の貨幣代わりとして各藩が発行した藩札(はんさつ)。しかし、領民からはあまり信用されておらず、不信感から一揆まで起こってしまった。その背景を読み解く。


 

藩札には決められたフォーマットはなく、藩によってデザインや大きさがバラバラで、これで同じ価値があるといわれても納得がいかないだろう。陸奥仙台藩札(日本銀行貨幣博物館蔵)


越前福井藩札(日本銀行貨幣博物館蔵)

 こんな小さな紙切れで、なんで食べ物や、服が買えるの? と紙幣を見て思ったことはないだろうか。現在使用されている紙幣は、発行元の信用で、その価値が保証されているから通貨として使用できるのだ。

 

 江戸時代、幕府が発行していた通貨は貨幣であった。幕末には紙幣を発行したとされているが、どうやらは流通しなかったようだ。

 

 しかし、貨幣は、紙幣にくらべて作るのに手間暇がかかる。江戸時代になって世の中が、貨幣経済に移行し始めたが、肝心の貨幣が地方まで行き届かない。そのため、紙で作った通貨つまり、紙幣がつくられるようになった。俗にいう「藩札」だ。一般には寛文元年(1661)に福井藩(現福井県福井市)で発行されたものが、最初だとされている。貨幣の代わりであったからだろうか、当時は藩札ではなく「金札」や「銀札」、「銭札」などと呼ばれていたという。使用範囲は、基本的に発行した藩内、つまり最初の藩札は福井藩内だけで使用されていた。

 

 この藩札、藩の思惑だけでつくることができるのではない。発行する時には幕府の許可が必用で、「幕府が発行する貨幣と交換できなければならない」という条件がついていた。たとえば、藩札を持った人が藩に「これを小判と交換して下さい」といえば、それに応じなければならないのだ。

 

 しかし、実際には交換できる額を超えて発行した藩が多く、領民たちは藩札をあまり信用していなかった。「本当にこの紙切れで、お米が買えるの?」といったところだろうか。藩の方では、せっかく発行したものだから積極的に使用してもらいたい。そこで、藩の専売品の買い上げの支払いとして藩札を使用するなど、無理やりにでも藩札を流通させようとした。その押しつけに反発して一揆が起こることもあった。

 

 藩札に対して領民たちの不信感があったため、幕府発行の貨幣の何割か引きの価値で流通していた。しかし、藩があるうちはまだいい、藩が何かの理由で、なくなってしまうと藩札はただの紙切れになってしまう可能性もあるのだ。赤穂藩(あこうはん)は、藩主・浅野長矩(あさのながのり)が、江戸城内で吉良義央(きらよしひさ)に切りつけるという事件を起こして、藩が取りつぶしとなった。いわゆる赤穂事件である。この時、赤穂藩は、発行済みの藩札を6割の幕府発行の貨幣と交換したという。「えっ、半分ぐらいになってしまうの?」と思う方も多いことだろう。

 

 明治4年(1871)、廃藩置県により、藩がなくなってしまうと藩札が禁止になった。そのため、藩札を明治政府発行の通貨と交換したのだが、藩札の額面の3割程度しか新通貨を手にすることができなかったという。つまり、赤穂藩の6割という交換レートは、世間一般の倍だったのだ。赤穂藩は塩の名産地として有名で、その販売を藩が行っていたために、他の藩に比べて財政が豊かだったのである。そのため、取り付け騒ぎのようなことは起こらなかったという。

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過去記事

加唐 亜紀

1966年、東京都出身。編集プロダクションなどを経てフリーの編集者兼ライター。日本銃砲史学会会員。著書に『ビジュアルワイド図解 古事記・日本書紀』西東社、『ビジュアルワイド図解 日本の合戦』西東社、『新幹線から見える日本の名城』ウェッジなどがある。

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