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魚雷44本が命中し、艦体をくの字に曲げて没した戦艦大和

沖縄戦と本土決戦の真実⑮

12時57分、魚雷・爆弾・ロケット弾が一斉に襲う

広島県呉市宝町の長迫公園にある、戦艦大和戦死者の碑。この石碑以外にも、約80基の合祀(ごうし)碑が建立されている。

 沖縄戦に向かう途中で、相次いで被弾したにもかかわらず、第一遊撃部隊はこう判断していた。

 

①当面の戦闘航海に支障なし

②しかし、被害は増大の状況ゆえ、沖縄に突入する時機は変更を要する

③損傷艦、特に第二水雷戦隊の状況を確認するため、「矢矧(やはぎ)」の方向に向かう

 

 だが、12時57分から午後1時27分の時間帯、日本海軍が体験したこともない熾烈(しれつ)な攻撃が展開された。44本の航空魚雷と爆弾27発、高速ロケット弾112発が、異方向より連続して巨艦を襲うことになった。

 

「大和」前艦橋(かんきょう)の配置で記録をとっていた航海士・山森直清中尉は戦後の回想で、「そうひどい被害とは思わなかった。戦闘航海には支障がないと思った。魚雷が当たると船体が振動するが、最初の2、3本の被雷はかすり傷のような振動だった。艦首付近の魚雷命中は戦闘の割と早い時期で、その後、艦の中部、後部に連続して命中するようになると、胴ぶるいするような、ひどい振動となった。機銃掃射(きじゅうそうしゃ)、被雷の数は、爆弾より多かった」との証言を残した。

 

 第一次攻撃隊第二波の攻撃には急降下爆撃を得意とするSB2C機と、「エセックス」「バターン」、さらに「バンカーヒル」「カボット」各隊の雷撃機で、「大和」が回避行動で2度の360度右回頭を行う間に、分散して連続雷撃を実行した。

 

「大和」には複数の魚雷が命中した。艦橋トップにある防空指揮所で見張の責任を負っていた見張長・渡辺志郎少尉は「敵は銃撃、爆撃、雷撃の同時襲撃を実施した。『大和』は同時攻撃を迎え撃つ原則を持っていなかった」と証言している。

 

 また、工作科・前宮正一上等水兵は、「戦闘が激しくなると、どこどこを探知、どこどこを補充せよ、と言われても体が艦の傾斜で動かない。配置をまもるというより魚雷命中の衝撃で、眼と耳を押さえ、皆で固まる。指揮官は、班長は被害が大きくなるから散らばれと言うが、人間の心理か、怒られても、怒られても、固まった」と恐怖を語る。

 

右舷艦首と艦腹に4機横陣で魚雷攻撃

 

「大和」を守る防空駆逐艦「冬月(ふゆつき)」通信長・鹿士俊治中尉は、「空一面に米軍機。『大和』には進行方向左から、米雷撃機の同時攻撃。雷撃機は編隊で、全機同時に魚雷を投下してゆく。魚雷の命中は同時に3本の水柱があがる状況を2、3回見ている。これでは応急できない。(中略)後部第三主砲塔付近に同時に2、3本の水柱があがり、左に段々傾いていった」と米雷撃機の猛攻を語った。

 

 攻撃はこれで終わったわけではなかった。第二次攻撃隊が戦場に到達したのだ。空母「イントレピッド」所属第10航空群、「ヨークタウン」所属第9航空群44機、「ラングレー」第23航空群103機が攻撃を開始。

 

 13時35分、4機が「大和」に通常爆弾3発を投下、さらに14機のSB2C機が454㎏の徹甲(てっこう)爆弾と、227㎏徹甲爆弾27発を投下。それでも「大和」は沈まなかった。

 

 しかし、いよいよ最期の時が来た。

 

 14時10分、「ヨークタウン」から発進した6機は攻撃性能を高めた航空魚雷を搭載し、傾いていた「大和」の右舷艦首(かんしゅ)と艦腹(かんぷく)を狙って、4機横陣で雷撃した。雷跡は「大和」のあらわになった右舷前部に命中し、大きな水柱を上げた。直後に後続の2機が別々に「大和」を雷撃した。

 

 艦橋トップ防空指揮所で指揮を執る艦長・有賀幸作(あるがこうさく)大佐は「総員退去」を下令した。「大和」はお椀をひっくり返すように完全に横転した。巨大な鯨(くじら)の腹のような艦腹を晒(さら)し、そのまま沈むと思われた。

 

 その瞬間、第2番主砲塔付近から2回ボッボーンと誘爆を起こした。大音響とともに目もくらむ黄色い閃光、高さおよそ800mに及ぶ炎が噴出し、巨大船体は瞬時に海底に没した。上空には、原子爆弾の炸裂(さくれつ)雲のような爆炎が立ち上った。

 

 特攻戦艦「大和」の最期だ。

 

 今なお、「大和」は九州坊ノ岬南西約120海里の海底に没したまま、3つに分かれた状態で「その栄光」を後に伝えるべく横たわっている。

 

監修・文/原勝洋

(『歴史人』2022年6月号「沖縄戦とソ連侵攻の真実」より)

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