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戦艦大和の出撃を捕捉していた米軍の猛撃

沖縄戦と本土決戦の真実⑭

「われわれは、死に場所を与えられた」

山口県下関市みもすそ川町にある、火の山公園の「戦艦大和弾丸」。大和の主砲用として用いられていたとされる。

 4月6日曇り、雲量(うんりょう)8、風力南東の風10・5mの天候の中、山口県徳山湾沖に警泊する海上特攻隊に、出撃の時が来た。

 

 戦艦「大和」(艦長・有賀幸作/あるがこうさく/大佐)は駆逐艦「花月」から600トンと、「朝霜」からも補給を受け、搭載量4000トンとした。

 

 第二水雷戦隊旗艦司令官・古村啓蔵(こむらけいぞう)少将以下「矢矧(やはぎ)」(艦長・原為一/はらためいち/大佐)は搭載量1250トン、第41駆逐隊司令・吉田正義(よしだまさよし)大佐以下「冬月(ふゆつき)」(艦長・山名寛雄/やまなひろお/中佐)と「涼月(すずつき)」(艦長・平山敏夫/ひらやまとしお/中佐)各900トン、第17駆逐隊司令・新谷喜一(しんたにきいち)大佐以下、「磯風(いそかぜ)」(艦長・前田實穂中佐)、「浜風(はまかぜ)」(艦長・前川萬衛/まえかわまねい/中佐)各599トンなど、海上特攻隊は計1万475トンだった。

 

 第二水雷戦隊は対「大和」を標的に襲撃教練実施のため、「矢矧」を先頭に順次出撃した。

 

「大和」では、来艦した海兵41期の聯合艦隊参謀長・草鹿龍之介(くさかりゅうのすけ)中将と、第二艦隊司令長官・伊藤整一中将とが、右舷中央にある長官公室で息詰まる状況にあった。

 

 伊藤長官は作戦目的が「全力を挙げて沖縄周辺敵艦船を攻撃撃滅す」であることに、納得しなかった。生きて残る者・草鹿と、出撃と同時に死に臨む者・伊藤の緊迫した状況となった。

 

 沈黙が続き、座が白けた。

 

 草鹿に随行していた三上作夫(みかみさくお)中佐は、一瞬ためらったが意を決して、「本作戦は陸軍の総反撃に呼応して敵の上陸地点に艦を乗り上げ、陸兵となって斬り込むところまで考えられている」と発言した。伊藤整一中将は、即座に「それなら何をかいわんや。良く了解した」と返した。

 

 伊藤司令長官は、部下(およそ7000人)に対し、「われわれは、死に場所を与えられた」と告げた。

 

「大和」は「両舷前進微速」で、徳山湾外から静かに出撃した。

 

 一方、沖縄島北東海面に集結した米軍高速空母部隊の第一群正規空母「ベニントン」「ホーネット」、軽空母「ベローウッド」「サンジャシント」、第三群空母「エセックス」、旗艦「バンカーヒル」「ハンコック」、軽空母「バターン」「カボット」、第四群空母「ヨークタウン」「イントレピッド」、軽空母「ラングレー」の正規空母7隻と軽空母5隻から、第一攻撃隊と第二次隊の合計367機が暗号解読情報、B-29による偵察、潜水艦視認から得た情報をもとに「大和」攻撃に飛び立った。

 

 悪い視界と悪天候のなか、推定位置より48・2㎞離れていた海上に特攻隊を探知し、レーダー触接からおよそ15㎞に「大和」を目撃した。

 

 付近の視界はおよそ7・4㎞〜14・8㎞、一部の地域では厚く垂れこめた雲に覆われ視界3・7㎞と非常に悪かった。一方、日本側も11時35分には、敵編隊2群を70㎞付近に探知していた。

 

第一波の攻撃ですでに複数箇所から黒煙

 

 戦艦対航空機との優劣を決する海空戦闘が開始された。12時30分に最初の攻撃があり、米軍の第82爆撃中隊4機が高度762〜305mから爆弾を投下した。滑空爆撃で各機が半徹甲(はんてっこう)爆弾2個ずつ、計8発を一斉に投下後、「大和」の中央部に火焔(かえん)と黒煙を伴う爆発が、広範囲かつ顕著にあった。前艦橋部の至近と、主檣(しゅしょう)後部付近にも爆発が起こった。

 

 引き続き12時40分、8機が「大和」を雷撃。航空魚雷を高度182・9m〜213・4mで投下した。「大和」艦首部付近に命中4本(大和記録は命中1本)。

 

 間髪を入れず12時45分、「ホーネット」から出撃した7機が徹甲爆弾7発、同半徹甲爆弾7発を高度914〜1219mから急降下し、305mで投下した。中央部に1発、煙突後方に2発、そして艦首部に1発が命中したのが目撃された。この目撃は視覚観測だが正確と思われる。

 

 さらに12時45分、1機が227㎏通常爆弾4発を「大和」直上から低高度で投下した。この単機での攻撃機は「大和」艦上から爆弾を投下したと主張している。そして、上空で一波攻撃中に待機旋回していた第一次二波の攻撃が開始された。

 

監修・文/原勝洋

(『歴史人』2022年6月号「沖縄戦とソ連侵攻の真実」より)

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