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司令部が「死中に活を求め」大敗した首里攻防戦

沖縄戦と本土決戦の真実⑥

局地戦では健闘するも補給がなくジリ貧の日本軍

沖縄本島に上陸した米軍。日本軍の分断を目指し、まず沖縄本島の中部から上陸を開始した。

 米軍の沖縄本土上陸から10日ほど経った、4月12日午後7時、日本軍は長(ちょう)参謀長の主導によって三たび積極攻勢に出た。

 

 しかし、第24師団から夜襲に投入された日本兵たちは地形が良くわからず、ウロウロしているうちに照明弾に照らされ、集中砲火を浴びて全滅する部隊も出て失敗に終わった。第62師団の歩兵第64旅団も、一部の部隊が宜野湾(ぎのわん)近くまで進出したが、13日までに掃討(そうとう)され、夜襲は失敗に終わり、第32軍は再び持久態勢に戻った。

 

 米軍も日本軍の激しい抵抗に遭い、作戦の立て直しを迫られて、4月15日から4日間を次期総攻撃の準備期間として、兵力の増強と軍需品の集積に専念したのだ。

 

 4月19日と20日の両日、米軍の総攻撃が再開された。事前の準備砲撃では大小の火砲324門を30メートル間隔で並べ、40分間に1万9000発、実に1分間で475発、毎秒8発のペースで砲弾が撃ち込まれ、空からもロケットやナパーム弾を大量にぶち込まれた。

 

 前線の西に位置する嘉数(かかず)陣地に、米軍は30輛の戦車を連ねて攻撃を加えてきた。守備する日本軍は速射砲、山砲、高射砲と持てる火砲で反撃、兵士は爆薬を抱えて戦車に体当たりして侵攻を食い止めた。この日、嘉数で米軍が失った戦車は22輛で、1回の戦闘で失った数としては沖縄戦中最大であったと記録されている。

 

 東の和宇慶(わうけ)でも1個中隊約200名が全滅したが、それと引き替えに米軍を撃退、中央の棚原(たなはら)でも2個大隊約1000名の兵力が、米軍の1個連隊約3000名を相手に力闘を続けていた。だが、米軍が兵員・物資などの補給を受けられるのとは対称的に、日本軍守備隊は兵力を失っても補給は受けられない。

 

 このままではじり貧になってしまう。

 

失敗した日本軍の総攻撃

 

 4月29日、第32軍司令部は「死中に活を求め、まだ攻勢の余力がある間に敵に痛撃を与えて運命の打開を図る」べきだという結論に達し、再び総攻撃を実施することにした。

 

 総攻撃は5月3日夜から開始された。まず船舶工兵隊が海岸線沿いに米軍の背後に上陸し、独混第44旅団は首里の北東に進出した。そして翌4日未明、軍砲兵隊が砲撃を開始、1万3000発の砲弾を撃ち込んだのち、温存されていた第24師団の歩兵第32連隊と歩兵第89連隊が、米軍に占領された棚原〜幸地(こうち)に向かって前進した。戦車第27連隊も全力を挙げて出撃、首里前方の米軍に向かっていった。

 

 だが、姿を現した日本軍に対して米軍は戦車で反撃、猛烈な集中砲撃で日本軍を撃退し、第32軍の将兵は目標とする米軍陣地にたどり着けないまま、全滅する部隊が相次いだ。

 

 牛島軍司令官は5日午後6時、総攻撃中止を命じている。

 

 総攻撃後の第32軍の兵力は、第62師団が当初の4分の1、第24師団が5分の3、独混第44旅団が5分4にまで撃ち減らされていた。

 

 総攻撃が失敗した2日後の5月7日、ヨーロッパ戦線では日本の同盟国ナチス・ドイツが連合国軍に降伏していた。勢いに乗った沖縄戦線の米軍は、3方向から日本軍司令部が潜む首里の包囲を縮めてきた。

 

 第32軍はこうした事態を迎えて、軍司令部を沖縄本島南端の摩文仁(まぶに)に移すことにした。首里攻防戦で全軍玉砕という戦法を回避したのは、牛島(うしじま)軍司令官が沖縄赴任に際して梅津(うめづ)参謀総長から玉砕を強く戒(いまし)められ、1日でも長く米軍を引きつけて、本土決戦準備の時間を稼ぐという方針に従ったのだとされている。

 

 撤退は折からの豪雨をついて始まった。激しく叩きつける雨と泥濘(ぬかるみ)の中の行軍は難渋したが、豪雨のために米軍の活動がやや鈍ったことは幸いした。

 

 各部隊は5月29日から31日にかけて首里陣地から撤退を開始し、6月4日頃までに新しい陣地に入った。軍司令部は30日、摩文仁南側89高地の自然洞窟に入った。

 

監修・文/平塚柾緒

(『歴史人』2022年6月号「沖縄戦とソ連侵攻の真実」より)

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