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この戦いは聖戦なり──「田中吉政」(東軍)

「関ヶ原の戦い」参戦武将たちの本音! 第10回 


天下分け目の大戦・関ヶ原合戦には、取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた。それらの中から東西両軍武将たちをフォーカスし、なぜ東軍(西軍)に加わったのか、合戦での役割はどんなものであったのか、さらには戦後の動向など、その武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。


田中吉政 たなか・よしまさ
所領/岡崎10万石、
動員兵力/3,000人(推定)
布陣場所/筒井定次らと西軍・小西行長、島津義弘部隊に対峙
合戦での動向/本戦終了後、佐和山城攻城戦にも加わる
戦後の処遇/筑後柳川32万石に加増

 私は、信長公幕下から太閤殿下(秀吉)に仕え、ついには三河・岡崎10万石の大名に成り上がった。此度(こたび)の内府公(家康)による上杉征伐に従軍したが、治部少輔(じぶのしょうふ/三成)らの挙兵を受けて反転西上した。治部が秀頼公を擁護し、豊臣家の勢いを戻そうという気持ちは分かる。あの男は、私と同じ近江の出身者。律儀者であり、太閤殿下には忠実で誠実な男であったから。本来ならば私も西軍にいてもおかしくはないのに、東軍の武将として治部の西軍と向き合っている。しかも、最前線で治部の本隊を間近に見ているし、目の前には恐らくここにいる軍勢のうちで最強であろう治部の家老・島左近(しまさこん)の1千がいる。私の部隊3千が、少なく見えるほどに島隊は勢いが良い。やはり恐ろしい敵である。

 

 さて、今の私をイエス様が見たら、いや見ているに違いないだろう。イエス様はどのように思われるか。太閤殿下を裏切った私を、イエス様を裏切ったユダのように責めるだろうか。私がキリシタンに帰依したのは太閤殿下のキリシタン迫害下でもあった。洗礼名は「バルトロメオ」。日本語では発言が難しい名前だが、私はこの洗礼名は気に入っている。

 

 そう。私はこの戦いを、聖戦と考えているのだった。内府公がこの先キリシタンをどう扱うのか、それは不明だが、少なくともここで私のようなキリシタン大名が武功を上げることで、キリシタンへの扱いも違ってくるであろうし、何よりもキリシタンを通じてもたらされるこの国への西洋の物資にも魅力がある。内府公は、必ずやそれを分かってくれるはずだ。

 

 私の部隊の隣には加藤義明(かとうよしあき)の3千が並び、さらにその先には黒田長政(くろだながまさ)が5千400で突進しようとしている。生駒一正(いこまかずまさ)の1800は、何故か焦っているようにも見える。しかし、眼前の島左近の部隊を打ち破らねば、治部の本隊には届かない。治部の本隊に勝利して、治部の首を取ることのみがイエス様の御心に叶うことではないか。

 

 黒田隊が前面に出て鉄砲を撃ち尽くした後で、今度は弓隊が射かける。頃合いを見て鑓隊の登場だろう。同じように島隊も鉄砲、弓、槍で応戦する。接戦になった。島左近の声か。「かかれえ!かかれえ!」という野太くはっきりした声が響く。と、見ている間に島隊が黒田隊を蹴散らした。2倍も3倍もある黒田隊がまるで赤子だ。

 

 私は震えた。数え切れぬほどの戦場を往来し、敵味方の命の取り合いを見てきたどの合戦よりも恐ろしい相手であったからだ。私の部隊に島隊が襲い掛かってくるのは時間の問題であった。と、島の騎馬隊がこちらに向かってくる。「これは死兵だ。死を決意した兵ほど怖いものはない。これまでだ。全滅するよりはいい」。私は全軍に撤退を命じた。

 

 私は馬上でおぞ毛を振るった。こうなればイエス様も聖戦もなかった。生きていればこそ。私はそう決断していたのだった。

 

         ◇

 

 合戦後、田中吉政は石田三成を捕縛した。こうした功も含め吉政には、筑後・柳川32万5千石が与えられた。3・2倍の論功行賞(ろんこうこうしょう)であった。

 

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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