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朽木、小川の裏切りを目の当たりにし、自らの進退を決めた「赤座直保」(西軍)

「関ヶ原の戦い」参戦武将たちの本音! 第9回 


天下分け目の大戦・関ヶ原合戦には、取り上げられることが稀なマイナーな武将たちも参戦していた。それらの中から東西両軍武将たちをフォーカスし、なぜ東軍(西軍)に加わったのか、合戦での役割はどんなものであったのか、さらには戦後の動向など、その武将たちの動きと心の裡(うら)を読み解く。


赤座直保 あかざ・なおやす
所領/越前今庄2万石、動員兵力/600人(推定)
布陣場所/松尾山麓、合戦での動向/戦闘後半に東軍に寝返る   
戦後の処遇/改易

 あっ!と儂(わし)は思った。とうとう、松尾山(まつおやま)の小早川秀秋(こばやかわひであき)が1万5千600という全軍を動かしたからだ。この全軍が麓にいる東軍に襲い掛かれば、間違いなく東軍は総崩れになる。それでなくとも西軍は強い。数の上では勝る東軍を良く防ぎ、どれどころか逆に攻勢を掛けている。これならば、西軍の勝利は間違いあるまい。そう、儂は思った。思わず采配を握り締めて麾下(きか)の将兵600に、突撃を命じる姿勢を取った。

 

 あっ! さらに儂は驚かされた。東軍の先鋒・藤堂・京極隊に突っ込むばかりと見た小早川勢が、何と味方の西軍・大谷勢の横合いに鑓を入れたのだ!どうするべきか。儂らは、この小早川の変心に備えて松尾山の麓に陣立てしていたのだから……。それにしてもあの小早川勢の勢いの凄さよ。まるで松尾山そのものが崩れ落ちるかのような勢いではないか。何と恐ろしい。1万の大軍が一塊りじゃ。

 

 儂は越前・今庄2万石だが、儂と同じように麓に位置されたのは脇坂安治(わきざかやすはる)・朽木元綱(くつきもとつな)・小川祐忠(おがわすけただ)の3武将。いずれも大谷吉継(おおたによしつぐ)殿の与力として配された小大名ばかりだった。他にもいた。平塚為広(ひらつかためひろ)・戸田重政(とだしげまさ)も同じ小大名であり、大谷殿に従って転戦してきた。

 

 大谷殿は、越前・敦賀5万石ではあるが昔、太閤殿下(秀吉)が「大谷刑部に100万の兵を与えて思うままに戦さをさせてみたい」と語ったというが、その通り素晴らしい采配を示す戦いぶりを見せた。さすが、と儂も思いながら従ってきたが。

 

 おお!大谷隊の伏兵が小早川に鉄砲を撃ちかける。見よ。バタバタ、小早川勢は倒れていくぞ。大谷隊が小早川勢を押しているわ。さ、頃合いじゃ。我らも大谷隊の支援に向かわねば。

 

 と、何じゃあれは!。横一線に並んでいた

 

 守備隊から脇坂勢が、何と大谷隊に鉄砲を撃ちかけたぞ。寝返りか。ええ、待てよ。確かに昨夜来、藤堂高虎(とうどうたかとら)自らが我らに寝返りを要請してきたが、まさか脇坂が応じるとは!

 

 だが、藤堂の陣営から振られる旗は、この戦さの最中にしては異様に過ぎる。あれが、藤堂の言った合図の旗か。

 

 おお!脇坂に続いて朽木も大谷隊に向けて攻撃開始じゃ。あっ!小川までが彼らに続いたぞ。このままでは、我らも大谷隊同様に味方から撃たれてしまう。何とかしなければ。この状況を、立て直すためには。さて……。家臣団も動揺し始めた。よし、決断の時じゃ。我らも、脇坂・小川に続くしかあるまい。者ども、「相手は大谷勢じゃ。相手は戦さ上手である。心して掛かれ!」。儂はそう叫んで采配を振るうと、脇坂隊の後に続いた。やがて、目の端に大谷隊の退却が見えた。「申し訳ない。大谷殿。許されい」。儂は、崩れ行く大谷隊に向かって、詫びの言葉を呟きながらなおも前に前に進んだ。

 

         ◇ 

 

 大谷軍壊滅の一端を担った赤座直保であったが、自発的な寝返りではないとして功績は認められず、合戦後は改易となった。後に前田利長の家臣として7千石を与えられた。

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江宮 隆之えみや たかゆき

1948年生まれ、山梨県出身。中央大学法学部卒業後、山梨日日新聞入社。編制局長・論説委員長などを経て歴史作家として活躍。1989年『経清記』(新人物往来社)で第13回歴史文学賞、1995年『白磁の人』(河出書房新社)で第8回中村星湖文学賞を受賞。著書には『7人の主君を渡り歩いた男藤堂高虎という生き方』(KADOKAWA)、『昭和まで生きた「最後のお殿様」浅野長勲』(パンダ・パブリッシング)など多数ある。

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