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武士の世の終焉!明治にできた「身分を問わない軍隊」のはじまり

幕末~明治の偉人が生んだ制度・組織のはじまり③


現在、わたしたちの生活のなかに当たり前にあるしくみや制度にもはじまりがあった。そのはじまりは当時としては新しい試みやルールであり、が故に実現するためには周囲を納得させて、いくつもの障壁を乗り越える必要があった。ここでは現代根づいている当たり前にある「仕組み」や「制度」のはじまりを紹介。現代を生き抜くヒントがあるはず。今回は「身分を問わない軍隊結成」の“はじまり”と歴史を紹介する。


 

■これまでの武士の世界からの転換

 

鳥羽伏見の戦い

鳥羽・伏見の戦い
戊辰戦争の初戦となった鳥羽・伏見の戦いは、日本を変えるべき新勢力である薩長軍と旧体制である徳川幕府軍が明確に2分して戦った最初の戦いであった。(皇国一新見聞誌『伏見の戦争』東京都立中央図書館蔵)

 

 鳥羽・伏見の戦いにおける官軍(新政府軍)は薩摩(さつま)・長州(ちょうしゅう)両藩兵を主力に約4500人からなり、続く奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟との戦いでは、薩長に土佐藩を加えた三藩の兵を主力に1万人余が東国へ遣わされた。

 

 これが日本で最初の国軍かと言うと、事はそう単純ではない。官軍であることを証明する錦(にしき)の御旗(みはた)を掲げていたとはいえ、彼らはそれぞれの藩に籍を置き、それぞれの藩から食いぶちをもらう身。指揮系統も藩ごとだから、まだ国軍と呼ぶことはできない。

 

高杉晋作

高杉晋作像
正規に身分が取り払われた軍ができる前、初めて武士や農民という身分を問わなかった軍は高杉晋作が結成した奇兵隊とする見方もある。

 

 明治維新の目指すところは、島津家か毛利家が徳川将軍家に取って代わるのではなく、その原動力は生存欲にあった。欧米列強と伍していくには、個々の藩の力を強めるだけでは足りず、従来の藩の枠を取り払い、日本全体を一つに中央集権国家にする必要がある。倒幕はそこへ至る過程にすぎず、天皇奉戴(ほうたい)は方便(ほうべん)なら、版籍奉還もそれに続く廃藩置県も、すべては目的達成のために方便だった。

 

 旧藩主からの奪権に成功したなら、次になすべきは国軍の創設だが、なにぶん明治政府は立ち上がり早々、財政逼迫(ひっぱく)の状態にあったから、できるだけ安く挙げねばならず、幕臣や諸藩士すべてをそのまま国軍兵士に横滑りさせるなど、できない相談だった。

 

 家族の扶養(ふよう)まで考慮した給与体系も組めず、特定の集団に武力を独占させることも避けて、職業軍人は最低限に留めながら、それなりの人数を確保するには、身分を問わない徴兵制を導入するより他によい方法は見当たらなかった。

 

 必要数の確保に加え、明治政府高官の頭の中では、「新しい酒は新しい革袋に盛れ」という聖書中の至言とよく似た考えが働いていたと考えられる。武器の主力が刀槍弓矢から銃火器に代わり、戦術や訓練の仕方も変わるのであれば、担い手も変えなければならず、従来の武士は完全に用済みであると。

 

 かくして1873年(明治6)1月から実施された徴兵令では、17歳から40歳の男子から徴兵検査と抽選で選ばれた者は三年間、常備軍(現役兵)に編入され、三年経過後は第一後備軍(のちの予備兵)、それから一定期間を過ぎた者は第二後備軍(のちの後備兵)とし、緊急時に召集されるものとした。

 

徴兵令

徴兵令
日本史上初の徴兵令は明治6年に太政官布告により発せられた。満17歳から40歳までの男子を「国民軍」の兵籍に登録すると定められた。(国立公文書館蔵)

 

 とはいえ、貴重な労働力である壮年男子を三年間も奪われるとあっては、多くの反対が予想された。そこで明治政府は明確な免役規定を設けた上に、徴兵制を末端で担う戸長(数町村を組み合わせた小区の長)に大幅な裁量権を与えた。免役の対象となったのは、身長五尺一寸(154センチメートル)未満の者、戸主、嗣子、在役者の兄弟、徒刑(懲役)以上に処せられた罪人、官吏、官公立学校の生徒、免役料270円の納入者で、これが実際に適用されたならば、徴兵者数は該当年齢男子の8人に1人程度。戸長の裁量が加われば、9人に1人か10人に1人程度になったはずで、このくらいの確率であれば、大きな反発が片手で数えられる程度で済んだのも不思議ではない。

 

 仮に徴兵されたとしても、その任務は「地方の守衛」に限られた上、東京、大阪、熊本、仙台、名古屋、広島の全国六鎮台それぞれの管轄内を出ることはないと徴兵令に明記されていたから、親としても安心して送り出すことができた。

 

 つまり、日本最初の国軍が成立した時には、海外派兵はおろか、東京鎮台の兵が九州へ派遣されることも想定外だった。この大原則が崩れるきっかけとなったのは1877年に起きた西南戦争で、わずか七か月半で平定されたとはいえ、これより日本国軍のあり方は外交の推移に応じて、なし崩し的に変化を強いられていった。

 

西南戦争

西南戦争
日本史上、最後の内戦とされる西南戦争。明治新政府が築いた、新しいしくみに馴染めず、身分をはく奪された元武士たちが不満を爆発させ、戦いが勃発した。(『鹿兒島新報田原坂激戦之圖』国立国会図書館蔵)

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島崎 晋しまざき すすむ

1963年東京生まれ。立教大学文学部史学科卒業。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て、現在、歴史作家として幅広く活躍中。主な著書に『歴史を操った魔性の女たち』(廣済堂出版)、『眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法』(日本文芸社)、『仕事に効く! 繰り返す世界史』(総合法令出版)、『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『覇権の歴史を見れば、世界がわかる』(ウェッジ)など多数。

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