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橋本左内が提唱した日本で“はじめて”の「議会制」

幕末~明治の偉人が生んだ制度・組織のはじまり


現在、日常の一部となっている「制度」や「仕組み」は、その出発点においては様々な紆余曲折があった。この記事ではそれらの“はじまり”を紐解きながら、現代にも役立つ学びを考察。今回は「議会制」が実現するまでの歴史を紹介する。


 

■現代の日本を支える「議会制民主主義」の歴史

 

橋本左内
適塾で学び、混乱期であった幕末の日本において先見的思想で日本の立て直しを図った人物。「諸大名から庶民まで広く各層から有為の人材を集め、挙国一致型の政府をつくるべき」という身分制が絶対であった江戸時代において、先行く人物として活躍した。(国立国会図書館蔵)

 

 立法府が衆議院と参議院の二院制からなる現行制度は戦後の産物だが、構想に限れば、その起源は幕末にまでさかのぼることができる。

 

 日本における議会制の起源を語る上で、欠かせない人物が三人いる。一人は弘化2年(1845)から日米和親条約を調印するまで老中首座の任にあった阿部正弘、次に越前藩士の橋本左内(はしもとさない)、あと一人は土佐藩の後藤象二郎(ごとうしょうじろう)である。

 

 橋本左内は福井藩主の松平慶永(春嶽[しゅんがく])に抜擢された逸材で、西洋について広く学んだ結果、英明な将軍のもと、有為の大名、藩士、浪人、学者、さらには庶民層までも網羅する統一国家体制の樹立が必要と唱えた。

 

 次に阿部正弘(あべまさひろ)は、もはや国政中枢の人材を親藩大名と譜代大名、旗本だけに頼る時期ではないとの認識から、具体的な方法はともあれ、富国強兵に成功した雄藩との協調を手掛けた。

 

 三番目に挙げた後藤象二郎は東京大学の前身である開成所(かいせいじょ)で学んで経歴を持ち、橋本左内の構想を受け継ぐ形で、前藩主の山内豊信(容堂[ようどう])を通じて提出した大政奉還の建白書の前文で「諸侯会議、人民共和」を謳い、諸侯(将軍も一諸侯として参加)からなる上院と、庶民をも登用する下院との二院政の実施を訴えた。

 

二条城大政奉還の会場となった二条城。将軍・徳川慶喜の英断により政権が江戸将軍から朝廷に返還された。

 

 阿部正弘の構想は正弘死後の元治元年(1864)、将軍後見職の一橋慶喜(よしのぶ)、会津の松平容保(かたもり)、松平慶永(よしなが)、山内豊信(とよしげ)、宇和島の伊達宗城(むねなり)、薩摩の島津久光を人員とする参与会議が開かれたことで日の目を見るが、時すでに遅く、わずか3か月の短命に終わった。

 

 後藤の構想も薩長の反対により退けられるが、慶応3年(1867)12月に王政復古の大号令が発せられた際、「旧弊一新のため、提言者の身分に関係なく、よい意見があれば取り次ぐように。加えるに、人材の登用は第一の急務である。心当たりの人物があれば登用せよ」との沙汰が下された。

 

 だが、政治参加への間口を広げるのはよいとして、一気に庶民までというのは、それまでの日本の歴史から見て、あまりに唐突の感をぬぐえない。イギリスの駐日公使パークスもそう感じたか、本国のクラレンドン外相に宛てた報告書の中で、「スタンレー卿(次期外相)の微笑みを誘うかもしれない」と記すなど、信じがたい内容であるとの見方を示していた。

 

 将来的な展望であったのか、それとも新政府の開明性を内外にアピールするのが目的だったのか、江戸開城後の慶応4年(1868)閏4月に発せられた政体書では、上局と下局からなる二院制議会が謳われながら、実際に議会としての機能を担ったのは下局で、人員も藩士に限られた。

 

 各藩から選抜された人員は貢士、ついで公務人、さらには公議人と短期間に呼称を変えられ、その集まりも「下の議事所」から公議所に改められるが、審議の対象範囲も明確化されないまま、藩論を代弁することしか眼中にない人びとに議論させても上手くいくはずはなく、日本初の立法府になることを期待された公議所はわずか三か月で集議院へと改称のうえ、最高意志決定機関である太政官の指示がなければ議事を行なえない諮問(しもん)機関へと降格された。

 

 結局のところ、本格的な議会制の始まりは、大日本帝国憲法が制定・公布された年の翌年、明治23年(1890)まで待たねばならなかった。

 

憲法発布式之図
憲法制定により、日本での本格的な議会制が開始された。(国立国会図書館蔵)

 

 日本初の近代的な立法府は貴族院と衆議院の二院制からなるが、議員の公選が行なわれたのは衆議院の方だけ。選挙権は25歳以上で直接国税15円以上の男子納税者に限られたことから、有権者の比率は総人口の約1パーセントにすぎなかった。

 

 すでに19世紀初めの時点で、日本が世界でもトップレベルの識字率を誇っていたこと、コメ依存では国家財政が成り立たなくなっていた経済状況などともあわせて考えると、政治参加への門戸を大胆に解き放ち、従来の藩の枠組みに捉われず、日本国全体に目を配り、物事を大局的に考えられる人びとを選ぶことこそが議員としても有権者としても相応しかった。

 

 大正デモクラシーの流れを受け、大正14(1925)になってようやく男子普通選挙の実施となるが、女子への選挙権と被選挙権の付与には至らなかった。

 

尾崎行雄
明治以来の藩閥・官僚政治に対して、民主主義的改革を要求して勃発した大正デモクラシー。この革命の実現に向けて尽力したひとりが尾崎であった。(国立国会図書館蔵)

 

 そして軍部の台頭による中断を経て、連合国軍占領下の昭和21年(1946)11月3日に交付、翌年5月3に施行された日本国憲法においては、国の唯一の立法機関として衆議院と参議院の二院制の国会が設けられ、男女同権の普通選挙が国民の権利として定められた。

 

 草案では一院制であったものを、最終的には二院制に改めたと伝えられる。その理由については、審議に慎重を期するためとも、衆議院と参議院をそれぞれ「数の政治」「理の政治」と位置づけ、政党間の争いの外に立ち、中立公正な知識を結集した参議院により数の暴力を抑制しようとしたとも伝えられるが、狙い通りにいっているかどうかは、過去70年の歴史が語らずとも実証している。

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島崎 晋しまざき すすむ

1963年東京生まれ。立教大学文学部史学科卒業。旅行代理店勤務、歴史雑誌の編集を経て、現在、歴史作家として幅広く活躍中。主な著書に『歴史を操った魔性の女たち』(廣済堂出版)、『眠れなくなるほど面白い 図解 孫子の兵法』(日本文芸社)、『仕事に効く! 繰り返す世界史』(総合法令出版)、『ざんねんな日本史』(小学館新書)、『覇権の歴史を見れば、世界がわかる』(ウェッジ)など多数。

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