壬申の乱で大敗を喫した大友皇子(弘文天皇)の謎
「歴史人」こぼれ話・第22回
壬申の乱において最後の決戦の舞台となったのは、琵琶湖の南、瀬田橋だった。『日本書紀』では、大敗を喫した大友皇子はその後敗走を続けて「山前に身を隠し、自ら首を括って死んだ」と記されているが、具体的に場所はどのあたりだったのだろうか?
大友皇子が自害した場所はどこだったのか?
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大友皇子(弘文天皇)像『歴代百廿一天皇御尊影』/国立国会図書館蔵
壬申の乱最後の決戦の舞台となったのは、琵琶湖の南、瀬田川に架かる瀬田橋(滋賀県大津市唐橋町)である。ここで大敗を喫した大友皇子は、敗走を続けて「山前に身を隠し、自ら首を括って死んだ」ことが『日本書紀』に記されている。
その場所は、「山前(やまさき)」を地名と見なして京都府大山崎町とする説と、地形を示す文字として近江大津京を見下ろす長等山(ながらやま)とする説がよく知られるところである。特に長等山は、大友皇子ゆかりの地(祖は後漢献帝の後裔・帝利とも)と考えられる大友郷(大津市穴太、南滋賀、滋賀里一帯)の南にあるところから、皇子が大友郷を目指したものの、前後を敵に挟まれて自害せざるを得なくなったとみなされる有力地である。
しかし、この2カ所とは別に、実はもう1カ所、その可能性が高いと思われるところがあるのをご存知だろうか? それが琵琶湖西岸、堅田の南にある鞍掛神社(大津市衣川)である。
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琶湖西岸、堅田の南にある鞍掛神社 撮影藤井勝彦
皇子は長等山で自害したのではなく、そこからさらに10数㎞北上して、大津市・衣川の地にまでたどり着いたという。同行したのは、侍臣2人。馬を馳せてこの地までたどり着いたところで、北に位置する三尾城陥落の知らせを耳にした。もはやこれまでと、鞍を下ろして近くにあった柳の木に掛け、その場で自害したというのだ。主の死を看取った二人は、農民となって墓を見守り続けた。その子孫が代々中村姓を名乗って、鞍掛神社を建てて皇子を祀り続けたのだとか。今も皇子が亡くなった7月に、例祭を執り行っているという。
ただし、大友皇子が自害した地と見なされるのは、上記の3カ所だけではない。
瀬田の唐橋の西にある御霊神社もその一つで、そこから北西2㎞余りの茶臼山(ちゃうすやま)古墳が皇子の墓と見られることもある。
さらには、遠く愛知県岡崎市(大友天神社、小針古墳)や、神奈川県伊勢原市(雨降院石雲寺内伝大友皇子陵)、千葉県君津市(白山神社)にまで逃げ延びたとの説までまことしやかに語られているのである。