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探検家・間宮林蔵の名言「樺太は地続きになどなっていない」

「歴史人」こぼれ話・第21回


日本史に足跡を残した偉人たちは、その生涯の中でさまざまな名言を遺している。江戸時代後期に探検家として活躍した間宮林蔵の名言とは、一体どのようなものだったのだろうか。


 

伊能忠敬から測量技術を学んだ後、幕府に命じられ樺太へ

間宮林蔵肖像『東韃紀行』/国立国会図書館蔵

 江戸時代後期の探検家・間宮林蔵(まみやりんぞう)。伊能忠敬から測量技術を学んだ後、幕府に命じられて樺太へ渡り、探検、調査を推し進めた果てに出した答えが、このひと言であった。つまり、樺太が半島などではなく、独立した島であることを確認したというのだ。

 

 今でこそ、それは当たり前のことであるが、当時は大半が陸続きで、北部に小さな島があるだけとみられていただけに、この言葉の持つ意義は実に大きかった。島となれば、ロシアが日本との交渉なしに、自国の領土であると容易に主張することができなかったからである。

 

 これを表明したのは、文化6(1809)年に行った樺太探索の後のことであった。前年度は松田伝十郎(まつだでんじゅうろう)に従っての探索であったが、この年は林蔵が主体となって北樺太西岸のナニオーまで到達、樺太が島であることを確認したというのである。大陸との間に立ちはだかる海峡の名が「間宮海峡」と呼ばれるようになったのも、この時の林蔵の発見が元になったものだという。

 

「間宮海峡」と呼ばれるようになったのは来日していた医師シーボルトのおかげだが

 

 名付け親は、医師として来日していたシーボルトであった。もちろん、林蔵の偉業は評価され、文化8(1811)年には松前奉行支配調役下役格に昇格したのは、当然のことというべきだろう。

 

 しかし、幕府は林蔵のこの探検家としての非凡な能力を、その後、ある特殊な役柄として利用していったようである。それが、隠密という、まさにスパイそのものであった。

 

 文政11(1828)年、日本地図を不法に持ち出そうとしたシーボルトを告発したのが林蔵であったというのも、何やら因縁めいて興味深い。

写真2)シーボルトに対する詰問書の最後の一葉 『和蘭雑話』/国立国会図書館蔵

 隠密に転身した後の林蔵は、石州浜田藩の密貿易の実態を掴んで検挙に至らせたり(竹島事件)、薩摩藩の密貿易の内偵にも取り組んだ。潜入が困難と見なされていた薩摩では、ふすま職人に化けて3年間も身分を偽って暮らし続けたというから恐れ入る。

 

 ともあれ、前半生は探検家、後半生は隠密として尽力。立場が大きく異なるとはいえ、ともに調査が目的とするところは同じ。生涯、調査に明け暮れた人生であった。

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藤井勝彦ふじい かつひこ

1955年大阪生まれ。歴史紀行作家・写真家。『日本神話の迷宮』『日本神話の謎を歩く』(天夢人)、『邪馬台国』『三国志合戰事典』『図解三国志』『図解ダーティヒロイン』(新紀元社)、『神々が宿る絶景100』(宝島社)、『写真で見る三国志』『世界遺産 富士山を行く!』『世界の国ぐに ビジュアル事典』(メイツ出版)、『中国の世界遺産』(JTBパブリッシング)など、日本および中国の古代史関連等の書籍を多数出版している。

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