壇ノ浦に沈んだはずの安徳天皇の亡霊が源頼朝を死に至らしめたというのは、本当なのだろうか?
鬼滅の戦史60
二位尼(にいのあま)に抱かれて壇ノ浦に沈んだ安徳天皇。しかし、実はそこから逃げ延びたとの説が、まことしやかに語られることがある。そればかりか、亡霊となって源頼朝の前に現れ、死に至らしめたと伝えられることも。その真相はいかに?
海に沈んだ儚き命
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「赤間の浦に於て源平大合戦平家亡びるの図」「源平盛衰記長門国」 都立中央図書館特別文庫室蔵
前回に続いて、平家滅亡時のお話である。壇ノ浦に追い詰められて、次々と海に沈みゆく平家一門。もはやこれまでと、幼き安徳天皇までもが、二位尼・平時子(たいらのときこ)に抱きかかえられるように入水していった。その顛末は、後世の語りにおいても、涙無くしては聞き得ない、憐れなものであった。御年8歳という角髪(みずら)姿の幼き子に降りかかった悲運、想像するだに、無常と嘆かざるを得ないのである。
父は高倉天皇、母は平清盛の娘徳子(建礼門院/けんれいもんいん)としてこの世に生を受けた後、満1歳2ヶ月(数え年で3歳)で即位。その補佐役を外祖父である清盛が担った。それからわずか数年で入水させられたわけだから、まさに大人たちの政略の渦に巻き込まれただけの、儚い命であった。
『平家物語』によれば、その最後の言が「われをばいづちへ具してゆかむとするぞ」(私をどこへ連れて行こうとするのか)であった。顔形が端麗で、辺りも照り輝くほどだったという帝の問いかけに対して、二位殿(二位尼)が「極楽浄土という結構なところでございます」と教え諭したとか。
さらに「波の下にも都がございますよ」との慰めの言葉とともに、帝を抱いて荒波に飛び込んだとも。その情景は、あまりにも無残としか言いようがない。この時、二位尼が身に付けたまま沈んだ神璽(しんじ。脇に抱えていた)と宝剣(腰に差していた)のうち、神璽は箱に入っていたためポッカリと浮かんだことで引き上げられたが、宝剣(形代)は海底に沈んだまま。他方、神鏡(しんきょう)といえば、平重衡(たいらのしげひら)の妻がそれの入った唐櫃(からびつ)を持ったまま入水しようとしていたが、直前に袴の裾に矢を射られて身動きができなくなったことで、失わずにすんだという。
ともあれ、宝剣とともに海の藻屑と消えた安徳天皇、その遺体が浮き上がって下関の岸に打ち上げられたとか、小間海峡で漁師の網にかかって引き上げられたとの伝承が伝えられている。小瀬戸に面した赤間神宮小門御旅所(あかまじんぐうおどおたびしょ)に一時安置された後、赤間関紅石(べにし)山山の麓の阿弥陀寺に葬られたともいわれる。
6年後の1191年、後鳥羽天皇の命によって御陵の上に御影堂が建立され、明治の神仏分離政策によって阿弥陀寺が廃されて赤間宮に改称されたと伝えられている。
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安徳天皇「一守九字成大漁」歌川国輝筆 都立中央図書館特別文庫室蔵
罪の意識に苛まれていた頼朝が目にしたものとは?
さて、本題はここからである。壇ノ浦の海底へと沈んでいったこの幼帝。凛としたその姿からうかがい知られるように、誰かを恨んだとは思い難いが、死後、亡霊となってこの世に現れたことが伝えられている。それを目にしたのが、源頼朝であった。
いうまでもないが、平家を壇ノ浦に追いやった挙句、幼帝を海に沈めざるを得ない状況に追い込んだのは、義経ばかりか、それを命じた頼朝であったことは間違いない。頼朝が「幼帝の亡霊を見た」ということは、すなわち「頼朝本人が罪の意識に苛まれていた」からに他ならない。
その情景を振り返ってみよう。14世紀半ばに成立した歴史書『保暦間記』(ほうりゃくかんき)によれば、1198年12月27日に催された相模川橋供養の帰路のことであった。稲村ヶ崎に差し掛かったところで、海上に安徳天皇の亡霊が浮かび上がったのだとか。
これを目の当たりにした頼朝が気を失い、その後病を得て亡くなったというのだ。義経の亡霊が現れたからとか、馬が何かに驚いて踊り上がったため落馬したから、川に落ちて水を飲んだから等々諸説あるものの、半月後の1199年1月13日に亡くなったことだけは確かである。
特段、幼帝が悪霊となって誰かに祟ったとは思い難いが、頼朝にとっては、危惧していたことが起きたというべきか。恐れていたからこそ、見えたのである。前回でも紹介した『義経千本桜』にも、廻船問屋の主人・銀平に扮した平知盛の女房役のお柳の元の姿が、安徳天皇であったというのも興味深い。
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壇ノ浦にある「安徳帝御入水之処」と刻まれた石碑 撮影/藤井勝彦
安徳天皇が壇ノ浦から逃げ延びたとの説も
もう一つ、安徳天皇が壇ノ浦で亡くならず、他所へ逃げ延びたとのお話も付け加えておこう。前述したように安徳天皇の遺体が赤間関に打ち上げられたとの説はあるものの、実のところ、遺体が見つからなかったと見る向きも少なくないのだ。安徳天皇が壇ノ浦から逃げ延びてたどり着いたとの伝承が各地に数多く存在するというのが、その証だろう。
例えば、摂津国能勢の野間郷では、4人の従者とともに逃れたものの、翌年に崩御(安徳天皇御陵墓あり)したとか。また、因幡国露ノ浦では、ここに上陸して明野辺で隠れ住んだ(岡益の石堂あり)とも。その他、鳥取県や徳島県、高知県、福岡県、鹿児島県など、各地に隠れ住んだとの伝承が伝えられている。
中でも興味深いのが、福岡県小倉南区の地「隠蓑」(かくれみの)に伝わる伝承である。安徳天皇は平家の公卿らに伴われて門司の田ノ浦に上陸。松ヶ江を超えて、長野城主を頼ったという。そこで2〜3ヶ月隠れ住んだものの、城主が亡くなったことで英彦山に向けてさらに逃避。横代を通って城野村(後の隠蓑)にたどり着いたところで、源氏方の追っ手が迫ってきた。そこで村人たちが茅や藁などをかき集めて天皇に被せ、その上からさらに「しび」(藁の外側の葉)をかけて隠したことで逃れることができたと伝わる。
小倉南区隠蓑にある薬師寺隠徳庵では、毎12月15日に「しびきせ祭り」が催されるが、これがこの伝承にもとづくものだという。神職が天皇役の稚児の頭に「しび」をのせて、無病息災を祈るのだとか。
ともあれ、いずれの伝承も、大人の事情で海底に沈められてしまった幼帝の儚さを哀れむ後世の人々の思いが募ったものか。「生きていて欲しかった」との願いが、それぞれの地域で形を変えて伝えられていったようである。