聖徳太子の弟・当麻皇子が退治した大江山の三鬼は、本当に鬼だったのだろうか?
鬼滅の戦史56
大江山は酒呑童子(しゅてんどうじ)の住処として知られていたところである。しかし、源頼光が酒呑童子を退治した頃から遡ること400年前にも、実は栄胡、足軽、土熊と呼ばれた三鬼がいた。それを退治したのが、聖徳太子の異母弟の当麻皇子(たいまのみこ)であったというから驚く。しかし、それは本当に民を苦しめていた鬼だったのか、歴史をさかのぼると疑念が湧き出てくるのである。
天神族が海人族を勢力下に収めたことの現れか
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『源頼光の酒呑童子退治』 東京国立博物館/ColBase
大江山といえば、清和源氏3代目にあたる源頼光(よりみつ/948〜1021年)が、鬼として恐れられていた酒呑童子を退治した伝説の舞台として知られるところである。京都北部の丹後半島、その付け根にそびえる大江山。ここを根城として近隣を荒らし回っていた酒呑童子を、頼光と配下の四天王らが毒酒を飲ませて眠らせた末、首を刎ねたという物語である。
しかし、この大江山での鬼退治の物語は、これだけではなかった。
その遥か400年も前の6世紀後半にも、大江山(当時は三上山と呼ばれた)を住処とする栄胡、足軽、土熊(土蜘蛛か。丹後国竹野の妖賊とも)の三鬼を退治したとの伝承が伝わっているのだ。朝廷の命に服さず、人々を苦しめていたというところは酒吞童子と同様である。
この鬼たちを退治したというのが、聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのみこ)の異母弟にあたる当麻皇子(『日本書紀』では麻呂子皇子、574年?〜?)であったと伝えられている。まずは、その概要から見ていくことにしよう。
大江山へと向かう当麻皇子。その途上、額に鏡を付けた白い犬が現れて鏡を献上したという辺りからが、この物語の見どころである。鏡が献上されたというのは、鏡すなわち太陽を神と仰ぐ民族を皇子が勢力下に収めたことを象徴的に語ったものに違いない。天神族以前に、海人族が太陽信仰の担い手であったことの表れとも考えられそうだ。
ともあれ、この鏡を手に入れた当麻皇子が、犬に導かれながら鬼たちの巣窟にたどり着いたという。栄胡、足軽の二鬼はすぐに退治できたものの、残る土熊には逃げられてしまった。そこで犬から献上された件の鏡を松の木の枝に掛けたところ、いなくなったはずの土熊の姿が鏡にクッキリ。居所がわかったところで、土熊までも見事退治することができたという。この宝鏡は、大江山の麓にある大虫神社(億計王と弘計王が即位前に潜伏していたところともいわれる)に納められたものの、後に火災で消失してしまったとか。
この鬼というのが、妖術を自在に操って空を飛び、海をも歩き、雲を起こして雨をも降らせることができたという。一説によれば、製鉄の民・タタラ師と関係があるとか。事実、大江山は金属鉱脈の豊富な鉱山で、この辺りは古くから製鉄が盛んだったことが知られている。おそらく、大江山の鬼とは、製鉄技術に長けた民族のことを象徴的に語ったものだろう。
鬼の首領の栄胡の胡が、中国の北方異民族と同じ名前であるのも気になるところ。この頃には、海人族ばかりか、中国北部からの渡来人も入り混じって、混沌とした状況に陥っていたのかもしれない。
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『聖徳太子二王子像』狩野養信模写 東京国立博物館/ColBase
当麻王と聖徳太子の対立があった?
さらに興味深いのは、当麻皇子の時代より2〜3世紀遡った崇神天皇(3〜4世紀に実在したと思われる)の御代にも、まつろわぬ陸耳御笠(くがのみみかさ/玖賀耳之御笠)なる者を退治したとの逸話が伝えられていることだ。
これを記すのが『古事記』崇神天皇の条で、四道将軍の一人として、日子坐王(ひこいますのきみ)を「旦波国へ遣わし玖賀耳之御笠を討った」とする。日子坐王とは開化天皇の子で、崇神天皇の弟にあたる。ただし、『日本書紀』では、丹波に送り込んだのは、彦坐王(日子坐王)の子の丹波道主命とするなど、系譜の上で若干の齟齬があるようだ。
この丹波地方に関して、谷川健一氏が著書『神と青銅の間』において、実に興味深い指摘をされているので紹介しておきたい。それによれば、「ミとかミミは先住の南方系の人々につけられた名であり、華中から華南にいた海人族」で、「日本に農耕文化や金属器を伝えた南方系の渡来人」だという。
つまり、この辺りには華中あるいは華南から渡来した海人族が多く住んでいたことを表している。日本海沿岸に美浜、久美浜、香住、岩美などミの付く海村が多いのがその証である。となれば、陸耳御笠とは、この辺りに住む海人族の族長で、天神族(日子坐王)がこれを討ったという図式が考えられそうだ。
それでも完全には征服しきれなかったようで、後年の三鬼や酒呑童子退治へと繋がっていったと見るべきなのかもしれない。
ともあれ、前述の当麻王の時代の三鬼も、その後の頼光が退治した酒呑童子も、どのような民のことを示していたのかは別として、朝廷にとってまつろわぬ民であったことには変わりない。当麻皇子の時代には、新羅への侵攻も伝えられているが、これもまた、朝廷にとって意のままにならぬ一大勢力であった。
当麻皇子自身が征新羅将軍に任じられながらも、出航直後に妻の舎人姫王(とねりのひめおおきみ)が薨(こう)じたことで、新羅への侵攻を諦めたことがあった。もしかしたらそれは、新羅を含む全方位外交を目指していた厩戸皇子こと聖徳太子との確執によるもの(太子が方針を変更したゆえ)なのではないか? そんな風にも考えられるのだ。